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店を出ると、すっかり真っ暗な世界が俺を迎えた。
(……やばいな、何時?)
改めて、時間と言うものを思い出して腕時計に「今何時?」と尋ねた。
『午後十一時二十三分です』
「十一時半かぁ…」
子供達は寝ているだろう。妻は……、やっぱり、寝ているかな。遅くなると連絡していて良かった。
ホッとすると思い出したように腹が鳴った。そう言えば確かに、晩御飯も食べていない。
コンビニ寄ろうか、と近道の裏路地に入った時にその音は聞こえた。
コツ、コツ、コツ。
別に。変な音ではない。
その足音は、ヒールと言うよりはしっかりとした革靴が出すような音だった。変だ、と思ったのは、その音が夜に嫌に響いたのと、それなのに少し意図して音を潜めようとしているように感じたからだ。
要は、普通に歩いているには、音がやけにゆっくりだった。
「………」
まさか、中年で特にイケオジでもない俺だ。ストーカーなんているわけもなく。
“無差別連続殺人”。
今日のわりと新しいはずの記憶の中にあったその言葉が頭を過り、まさかな、とは思うが心臓が落ち着かない。ざわざわと、胸騒ぎがした。緊張に、冷や汗が背中を伝う。
見ないから不安なのだ、と思った。勿論、振り返るのは怖い。怖いが、視界でしっかりと確認しないからこそ、悪いイメージが増幅するのだ。
振り返ればきっと、残業終わりのサラリーマンが歩き動画視聴をしながら腕時計に視線を集中させてゆっくりと通り過ぎていく――――そんな未来に期待して、振り返る。
と、そこには、白髪の背の高い男の姿があった。しゃんとした身なりで、背筋もしっかり伸ばしている。その、礼儀正しそうで几帳面そうな男の姿には覚えがあった。
「……前崎さん?」
特に親しいわけではないが、顔馴染み。―――そんな相手の姿だったにも関わらず、その姿を認めて更に心臓が跳ねた。逃げろ! と本能が叫んだ。
「……前崎さん、ですよね?」
いいから逃げろ! っと本能は叫んでいるのに、その人は確かに『前崎さん』であると思い込みたい自分の僅かな期待の為に、俺はそこに居着いて前崎さんと会話しようと試みていた。こめかみにも滲み出ていた冷や汗が、頬を伝う。
前崎さんの様子は、明らかに変だった。肩を上下させる程の浅い呼吸を繰り返している。表情が堅い。何かに怯えているように見えた。それでいて、普段の物柔らかさなど微塵にも感じさせない攻撃的な目がギラギラと光っていた。
「………ちがう、」
「えっ」
「お前は誰だッ! オレを見るなッ!」
突然、目の前の男が右腕を振りかざした。暗闇でも、光って見えたそれはナイフだった。――――ヤバイ!
弾かれたように身を翻し、走って逃げた。
「はぁっ、はぁっ、はぁっ」
どんなに走っても、すぐ後ろから足音が聞こえるような気がして、何処まで走ればいいのか何処へ逃げればいいのかわからないままに、ただ走っていた。
―――捕まったら、殺される……!
それだけは確信していた。
取り敢えず、家の方向から遠ざかるように走った。家には、妻も子供も寝ているはずだ。鍵を開けるようなことは出来ない、と瞬時に判断しての事だった。
(なんでこんなことになったのか…)
理由には全く身に覚えがない。
前崎さんから恨みを買った覚えもない。だが、推測なら出来る。恐らくあの人は、前崎さんであって、『前崎さん』ではない。
前崎さんがレンタルした記憶は、無差別連続殺人犯。それなのに、犯人の記憶を体験しているはずの前崎さんは仕切りに悲鳴を上げていた。―――勝手な推測だが、この犯人と言うのは、責任能力に問えなかったのではないか。―――というのも、犯人には極度の被害者意識があり、何故か他人が自分を殺すと考えてしまう為に、その恐怖心から人を殺し続けていた。――――と思えば、合点がいくような気がした。
歴史に名を残している殺人犯の言い分で、「自分は被害者だ」と言うものが多いということも、今、必要ないことなのに芋づる式に思い出していた。
「はぁっ、はぁっ、はぁっ……!」
運動なんて全くしてこなかった過去の自分を呪った。体が重い。足が思うように進まない。息ばかりがどんどん上がっていく。
しかし前崎さんは確か、毎日のランニングを日課としていたはずだ。事業家で丁寧で、健康にも気を遣う―――前崎さんは見た目を全く裏切らない生活をしているんだなぁと、感心したことを覚えている。
追い付かれる!
その後の事など、容易に想像が出来る。
焦った。子供の事を思った。まだ、成人には程遠い。妻の事を思った。専業主婦だ。俺が居なくなって、子供二人を抱えて、どうやって生活する? 未亡人。ダメだ。子供達の笑顔が浮かぶ。ダメだダメだダメだ…!
(ヤバイヤバイヤバイっ!)
物陰に隠れる余裕すらない。立ち止まると直ぐに捕まるだろう。家と反対方向に、出鱈目に走ったことを後悔した。交番の場所どころか、全く知らない住宅街に迷い混んだ。
(やばいっ、やばいやばいやばいっ……!)
「うわああああーッ!」
直ぐ後ろで叫び声がした。
今日、何度と聞いた前崎さんの悲鳴だ。
続いて、今までで感じたことの無い程の痛み、熱、ああ、と思った。ああ、体温が逃げていく。ああ、ああ……、
(死にたく、ない………)
ああ、ああ………。
******
「目を開けて下さい」
「……」
「どんな気分ですか」
「……」
ペンライトを目に当てられて不愉快に思ったが、先程の恐怖心や感じたことの無い程の痛みから解放されたのかと思うと、その不愉快さなど些末なことだと思った。
(…………助かっ、た………?)
額を濡らす汗を拭おうとしたが、手が動かなかった。見ると椅子の肘起きにきっちりと拘束されていた。
(あれ? 此処は? レンタルショップ…?)
何処からが自分の記憶だった? 酷く混乱した。傷は? 全部、別の記憶?
「お名前、わかりますか?」
「……」
「此処が何処だかわかります?」
「……」
まだ混乱している。息が浅い。「深呼吸して」と言われるまま、三回ほど深く息を吸っては吐いてを繰り返した。
それをしっかりと見守っていた男は三回目の深呼吸が終わるなり、ゆっくりと切り出した。
「貴方は前崎勤さんです」
「……」
「此処は刑務所で、先程の記憶は貴方の記憶ではありません」
「……」
「貴方が殺した、名護信弥さんの記憶です」
気分はどうですか? と警察官とおぼしき人物は重ねて訊く。
人物、と言うのは正しい表現では無いかもしれない。もう随分と昔から、警察官など危険を伴う職種はロボットが勤めることになった。だから彼らは、『警察官』という役割を与えられた、心の無いロボットである。
「………名護さんは、亡くなってしまったんですね……」
「はい。貴方が殺しました。奥様とお子様を残し、さぞ無念だったことでしょう。最期の記憶はどうでしたか?」
「……」
なるほど、心の無いロボットだ、と思った。
また、『自分』を取り戻して思うことは、犯人は自分ではないと言うことだ。
「………あのレンタルショップ屋を捕まえて下さい。私に犯罪をさせたのはあの男です。烏帽子と言います」
確かにあの時、世間を騒がせた無差別連続殺人犯の記憶が再生された。記憶のレンタル、記憶を観る、と表現するが、記憶のレンタルとは、“本人の記憶を体験する”ことで、客観的に観るのとは違う。だからこそ、記憶の再生が終わればしっかりと意識確認を行う義務がある。
それを怠ったことを責めているのではない。
自分はあの時、“世界的マジシャンの記憶”のレンタルをお願いしたはずだった。
「仕組まれていたんです。私が無差別連続殺人犯の意識のまま、誰かを殺すようにと」
「そんなはずはない」
断言に近い言い方が気になった。予てより、何故あの、少し性格に難のある若者がこんな重要な職を任されているのか気になっていた。
「………何故、重要な記憶レンタルショップを任されているのが、烏帽子さんなんですか?」
「烏帽子烏帽子と言うが、奴に固有名詞は無い。そいつがそう名乗っているのかはわからんが、そいつも我らと同じ、警察だ」
ショックと混乱で、どんな言葉も発することが出来なかった。
しかし少しずつではあるが、カチリカチリとピースが合うように、思考が答えに結び付いていく。
――――嘗て、ロボットと共存する世界をテーマに描かれた作品では、ロボットがロボット三原則を無視して人間を追いやる描写があったとか――――…。
嘗て、人間はロボットとの共存に憧れながら、恐怖していた。……らしい。
もう既にロボットとの共存なんてものは当たり前で。ロボット達にも何の不満もなく生活が続いているのだと思っていた。
だから自分は、未知のものは誰でも怖がるものだな、と……過去の考え方だと……、自分には関係無いのだと、思い込んでいた……。
「………こうして少しずつ、人間を減らすのか?」
「何の事だかわからんが。将来オレが『人間史』を書くなら結末はもう決めてあるんだ」
彼は酷く人間らしい―――非人道的な笑みを浮かべて、声高らかにこう言った。
そうして人類は永遠の眠りについた。
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