6. ジャズ

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6. ジャズ

   その日もいつものように、学校から帰ってから店に出て、開店までの二時間ほど、みっちり試験曲をさらった。今回はヘンデルのシャコンヌ。何でここにきてガンガンのバロックなのだと頭を抱える思いだが、ウチの超絶巨乳美人女史は、一切の言い訳もクレームも聞き入れなかった。  少しでも指がもつれると、途端に音がべたついて清廉さがなくなる。多分、仕事柄ロマン派ばかり弾いて、ペダルで誤魔化すような緩い指捌きに慣れちまっている俺のスカタンな指を鍛え直すために、女史は敢えてこれを選んだのだと思う。それはわかる。でも……苦手だ、これ。  開店準備で忙しい政さんに代わり、気分転換に、出入りの花屋への支払いに、俺は現金を持って5丁目通りを流していた。  花屋は、ゴールデン街やここ5丁目通りの店を主に請け負っている昔気質の花屋で、支払いは現金のみが信条である。 「おやっさん」  日が暮れると途端に気温が低くなる。ついこの間まで灼熱地獄だったこの界隈も、上着が必要な時期になってきた。秋か。  小さな間口の花屋は、うなぎの寝床のように奥が深く、一見相手の商売には余り向かないような、雑多な店構えである。銀色のバケツが所狭しと並んでいて、花がたくさん活けられていた。そのバケツに埋もれるようにして、白髪頭の70絡みの店主・遠藤さんが、忙しく手を動かしていた。 「おう、京太郎か。9月分だな」 「うん。いつもありがとう」  俺も姉貴も、小さい頃からこのおやっさんを知っている。ダラシのない母に代わり、姉貴は時には自分のバイト代から花代を支払っていた。それを知ってか知らずか、おやっさんはよく、コンサートの企画の時に特別なアレンジメントを出してくれる。追加料金なしで。  昔ながらの手書きの領収書を大切に折って財布にしまい、店を出ようとした時だった。大柄な男にまともにぶつかった。 「失礼、怪我はありませんか」  この辺りにもヤクザは多いが、こんな事を言うヤクザはいない。堅気の人間かと見上げると、記憶にある顔がそこにあった。 「あれ、夏輝お兄さん」 「京太郎くんか。後で店に伺おうと思っていたんだ」  久紀さんを少しソフトにしたような風貌。よく似ているが、夏輝さんの方が表情は柔らかい。体格も、一回り細身、とはいえ、十分にデカイし、鍛錬を感じさせる。 「霧生さん、毎度」  すると、おやっさんが供花を差し出した。流石にセンスのいい紫がかった色合いの花束である。夏輝さんは代金を支払い、大切に腕に収めた。  行きがかり上、並んで歩く羽目になった。 「その花は」 「ちょっと供えたいところがあって……」  俺が曲がろうとした角で、夏輝さんは立ち止まった。直進するらしい。 「外れたらすみません、それ、女性への、お供えですよね」  供花にしては可憐で、その向こうに、その花がよく似合う清楚な女性を連想させる。おやっさんのアレンジは、相手のイメージを外さない。夏輝さんの名前を呼んだことでもわかるように、誰に向けての花なのか、おやっさんは分かっていて作った筈だ。 「和貴にもそのくらい洞察力があると良いが……」  キャリア組の警察官僚らしく、上等なスーツを着て、髪も短く整えて、隙のないオーラを放っている夏輝さんなのだが、一瞬、学生のような無邪気な表情を見せた。こんな顔、和貴は知っているんだろうか。 「妻、なんだ。いや、正確には、妻になるはずだった人……いや、妻だな」  独り言なのか俺に言っているのか判別できないことを口の中で呟くと、また例の隙のない表情で「後で」とだけ言って直進していってしまった。 「おやっさん」  花屋に戻り、俺は今の人が友人の兄貴だと明かし、花の由縁を聞いてみた。 「客のことを話すのはどうかと思うが、おまえなら分かるか……10年以上前になるか、北新宿の成田組の若いモンがシャブ中で車を暴走させた事件があってな。成覚寺の交差点の、信号待ちをしていた歩行者の列に突っ込んだんだ。俺も手当てや救急車呼ぶために駆けつけたが、そん時、女の人が一人亡くなってな。新宿厚生年金会館で彼氏とジャズのコンサートを聞く予定だったんだそうだ。綺麗な子でな」 「その彼氏って……」 「あの人だよ、霧生さん。後で聞いたが、あの日にプロポーズするつもりだったそうだ。たまんねぇよ、若いもんが亡くなるのは。しかも理由が……」  そこまで言って、おやっさんは口を噤み、仕事の顔に戻ってしまった。もう、これ以上聞くな、という合図だ。  鉛のような足取りで漸く店に戻ると、カウンターに夏輝さんが座っていたのでビックリしてスツールあの足に蹴躓(けつまづ)いてしまった。手をつきそうになるのを、夏輝さんがすぐに手を伸ばして助けてくれた。おそるべし反射神経。 「は、早いっすね」 「君こそ、随分ゆっくりだったけど……ああ、遠藤フラワーの店長に聞いたんだな」  この人に隠し事は一切できないこと、和貴に初めて引き合わせてもらった時に痛感している。しようとすら思えないのだ、あの目で見透かされると。 「す、すみません……」 「あやまることはないよ。こちらこそ開店早々にお邪魔して、野暮なことだ」 「そんなことありませんよ、霧生さん」  政さんが笑うが、夏輝さんの前にはグラスが二つ、空のまま並んでいる。  何故カラなのか、考える間も無く、ドアが開いた。 「来たよ〜」  賑やかな声と共に、霧生兄弟が入ってきた。え、全員って……。 「お前たち……久紀、光樹、仕事は」  と言いながら、夏輝さんは嬉しそうだ。 「本当は完全オフにしたかったんだけど、この時間に来れたから許して」  光樹さんも久紀さんも、喪服、ではないけど、パンツもジャケットも黒で、中のTシャツだけがラフな感じになっている。和貴も、ちゃんと黒の綿セーターに黒のパンツを着ている。 「兄貴、俺たちも、お参りしてきたよ」 「そうか、すまんな」  光樹さんは夏輝さんの背中に手を回すようにして右隣に座った。基本的にこの人は人との距離が近いというか、密着型ならしい。反対側に久紀さんが座り、和貴はなんと、カウンターの中に入ってしまった。政さんは承知とばかりに5つのグラスを並べ、ビールを注いだ。 「政さん、京太郎くんも、付き合ってくれませんか」  夏輝さんの要望に添い、俺と政さんもマイグラスを出してビールを注いだ。 「今日はどうもありがとう。今年も兄弟と素晴らしい友人と共に、こうして亜弥を偲べることを嬉しく思う。では、献杯」 「献杯」  それぞれがグラスを掲げ、瞑目してから、ビールを飲み干した。 「この前のプレステージ、聞きそびれてしまったな。本番の日は仕事で来られないし、今、聞かせてもらえると嬉しいんだが」  何のことかと一瞬戸惑う和貴に、ほら、と声をかけて、俺はさっさとピアノの蓋を開けて椅子を二つセッティングした。  要領を得た和貴も、慌てて譜面を取り出してピアノの元に駆け寄ってきた。 「亜弥さん、で良いんですよね」 「ああ」 「では、亜弥さんと夏輝さんに」  そう言葉を添えて、俺たちは呼吸を整え、弾き出した。   「有難う、素晴らしい夜になったよ。連弾は思いの外豪華だな。二人の息も良く合っていて、実に良い演奏だった」  夏輝さんはそう言って、封筒をカウンターに置いて店を出ようとした。 「いただけません、奥さんへのご供養、ですから」 「そうはいかない。それに、弟がいつもお世話になっているのだから」  どうしようかと逡巡していると、あのふわっとした芳香が俺の鼻をくすぐり、すこぶる付きの美形が顔を近付けてきた。ブルガリアン・ローズだ……。 「それとこれとは別、パート2、ね」  ああ、芯が震えるからもう……白目を剥きそうになっていると、さっさと光樹さんは夏輝さんの腕にぐるぐると両腕を巻きつけた。あれ、久紀さんじゃないんだ。 「京太郎、また遊びにおいでね」  振り向きざま、そうウインクされて、命が無事なのが信じられない。  すると、和貴を押し出すようにして三人を外に出した久紀さんが、政さんにメモを見せた。 「口にしなくて結構です。この名前、記憶にありますか」  メモには、ある女の名前が書かれていた。政さんははっきりと頷いた。 「今のことは暫くあなたの胸に。良いですね」  新宿育ちの男に何を言うか、俺だって口は堅い。 「承知いたしました。どうぞまたおいでください」  政さんは例のキラースマイルで久紀さんを見送った。 「名前、見えたけど、何? 」 「口にするなと言われましたよ。京太郎君も、見なかったことにしなさい」  いつになく硬い顔で、政さんがそう俺に厳命した。
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