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10.南雲梨華
二丁目の仲通りを成覚寺側から一方通行を逆走するかのように歩き、新宿通りにぶつかる一つ手前の角に、夜9時にならないと開かない喫茶店がある。
『深海魚』
ママは、戦後の混乱期を体一つで生き抜き、御苑で男の袖を引く男娼から、30歳でやっとこの店の主人となった伝説の人。天涯孤独だというこの人を、この辺りで暮らしている連中は実家の母のように慕っているという。
かく言う俺たちも、母親がろくに家事もせずに店に出て行ったきり帰ってこない日が続くと、ここに来て飢えを凌いだものだった。姉貴が中学生の時など、なけなしの千円じゃとても足りなかったのに、園子ママは腹一杯食べさせてくれた。その頃に泣きながら食べたのが『沙絵スペシャル』だ。
磨りガラスが嵌め込まれた入口のドアには、まだ『準備中』の看板がかかっている。縋る思いで、その昭和臭漂う白い丸取手をグイッと押した。
「ごめん、まだ早いかな」
顔だけちょっと突っ込むと、80を超えたとは思えない艶々の肌をした園子ママが笑って手招きをしてくれた。
「あんた達なら大歓迎よ。お入んなさい」
長年の酒とタバコで仕上がった嗄れ声は、窓際の席で向かい合ってオムレツを突いた姉貴の笑顔を思い起こさせた。
「沙絵ちゃん、見つかった? 」
俺は黙って首を振った。それ以上は聞かない。新宿の流儀が服を着たようなママだから、黙って生ビールを二つ、俺たちの前に置いた。
「沙絵スペシャルが食べたい」
そう言うと、ママは頷いてカウンターの奥に消えて行った。
姉貴との関わりはよくわからない。姉貴が高校に上がると、バイト代を握りしめてよく俺を連れてきてくれた。
「余計なことかもしれないけど、あんたさ、やっと二十歳なんだよ。もっと周りの大人に頼っていいんじゃないのかい」
ママはそう言って、料理を俺の目の前に置いた。
大盛りのオムレツに、きのことシーフードたっぷりのクリームソースがかかっているやつ。しかもその上にチーズがまぶされて焦げ目が付いている。
年季の入った昭和臭のする皿も懐かしい。端っこが少し欠けているのもスペシャルのうちで、ここがあの頃と全く変わらない温かさで存在している事を、まざまざと俺に見せつけている。
味も、変わらない。作ったのはママだが、これを食べさせてくれた姉貴の味のような気もする。
「美味い……」
俺たちのテーブルの誕生日席に座って、ママはじっと俺を見つめた。
「変わんないわね、キノコから先に食べる癖」
「……そう? 」
「そう言えば、光樹って、あんたの友達の兄貴なんだって!? 世間て狭いわねぇ。あの子もこの街で色々あって……まぁハリウッド女優が霞むくらい綺麗だもの。アタシの昔を見てるみたいだわよ」
ぶっ、と政さんがビールを吹き出し、ママがそのスネを蹴飛ばした。悶絶しながら、政さんは「すみません」と小声で詫びた。
「その光樹が探り入れてきたって、マリネから聞いたんだけどさ、ほら、着物の販売会の詐欺のこと。あれさ、ウラに成田組のチンピラが噛んでてさ、それもあの何とかっていう女優の娘、あのワル、あれの男だったらしいのよ。そうとは知らずに、沙絵は昔の友人だから仕方なく、知り合い誘って行ったのよ。そしたら、その知り合いが詐欺られて。沙絵はその人の分を肩代わりしたって話よ。噂でさ、沙絵が巻き込まれたのは知ってたのよ。でも、そんなカラクリだったなんて……マリネもね、色々沙絵の為に動いてくれて、そこまで掴んだらしいんだけど」
「それって、南雲梨華」
「そうそう、梨華よ梨華。二丁目でも呑んだくれてさ、払いは悪いわ店は荒らすわ、遊びに来ていたお客さんにヤク回されたとかで、出禁にした店もゴロゴロあるんだから。今度結婚するんでしょ。冗談じゃないわよ、あんなアバズレ。しかもさ、沙絵は好きになった男も取られて。流石に沙絵も怒ったのよね……この辺りはみんな、沙絵の味方だから」
ママの話を聞きながらも、俺はオムレツを平らげていた。戦わなくては、そんな気がしたのだ。この後、戦わなくては、と。
「姉貴の好きな男、って、誰か知ってる? 」
俺はそんな話、知らないし、全然気付きもしなかった。政さんに目顔で尋ねると、やはり同様に初めて知ったかのようで、首を横に振った。
「私も知りませんでした。沙絵ママにそんな方がいらしたとは」
二人にせがまれ、ママはふかしていたタバコを揉み消した。
「良いのかなぁ、言っちゃって……あたしもね、伊勢丹で見かけただけなんだけどさ……あれよ、民自党の内藤景明の息子、隆景って言ったかしら、あの爽やかなイケメン君。間違いないわ、アタシが言うんだもの。あの時の二人、一緒にパンかなんか選んじゃって、恋人同士そのものだった」
「それって……」
南雲梨華が今度結婚する相手じゃ……。
「ああ、そう言えば週刊誌に出てたわね。びっくりしたわよ、一瞬沙絵かと思ったもの、イケメン君と映っていた女。南雲梨華だとはね。沙絵みたいな趣味の服着てさ。ここに来てた頃はもっと下品でさ、伊達にスタイル良いのを見せびらかして、でっかい胸もお股も見せ放題広げ放題よ」
「ま、ママ……」
夜の街のママは、時として表現に遠慮がない……。
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