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11.姉貴の陽炎
俺と政さんとで、壊れたドアを修理して、じゃぁ、と別れた時には、夜の10時を回っていた。これじゃ、明日も休むようだな。
政さんは俺が一人になることを心配したが、俺はむしろ、一人になりたかった。かといって部屋に戻る気にもならず、ピアノの前に座った。
上の階から、派手なカラオケの音が響いてくる。このビルのビークはだいたい今頃で、こうなると、ピアノの音さえ聞こえなくなるくらい筒抜けになる。
でも、おかげで音出しをしても怒られないので、俺は譜面を広げてさらうことにした。
ヘンデルのシャコンヌ。作りはさして難しくないが、宮廷音楽を思わせるような豪華さやら気品やら、ヘンデルらしい整った動きやら、俺にないものをごっそり要求される曲だ。ゆっくりなパッセージは、ちょっと余分な力が入るだけでレガートに歪みが出るし、幅の広い和音もバランスを取るのが難しい。オルガンやチェンバロを想定して弾いてみると、まだイメージが浮かんではくるが、何しろここは、イギリス宮廷でもなけりゃ教会でもない、新宿だ。
「いいですか」
すると、時々店に来る老紳士が、ドアを開けて顔をのぞかせた。
「すみません、今日はお休みで」
「いや、何もいりません。今弾いていた曲、それだけもう一度、聞かせてはくれませんか」
「ああ、でしたら……」
俺はダスターを広げて乾かしていたピアノカウンターの席を片付けて、急いでおしぼりを用意した。
「無理を言って申し訳ない」
「いえ、いつもありがとうございます」
こういう耳の肥えている人には、ヘンデルなんて弾こうものなら腕の悪さが瞬時に全部バレる。
仕方ない、と、腹を決めて俺は弾きだした。
「ありがとう。とても素晴らしい演奏でした」
いつものように、老紳士はゆったりと頭を下げた。この人はいつでも泰然自若としていて、身のこなしに品がある。スーツもいつも上等だ。
「良かったら、何か飲み物でもご用意しますが」
「いや……あ、コーヒー、なんて言ったら悪いかな」
「すぐ用意します」
ウチは基本飲み屋だが、姉貴の方針で、飲めない人にも楽しんでもらえるようにと、イタリア製のコーヒーマシンを用意してある。
「ラテやエスプレッソもできますよ」
「では、お言葉に甘えて、ラテを」
確か、この人は飲んでもせいぜいビール一杯というところで、さっと飲んでさっと席を立つ、粋客の見本のような人だったと思い出しながら、出来上がったラテを差し出した。
「ママは、まだ」
「ええ」
「そうでしたか……私はね、三丁目で弁護士事務所を営んでおりますが、以前、ママから詐欺について相談を頂いておりました」
え、と驚いた俺は、隣の席の椅子を引っ張り出して、紳士に向かい合うように座った。
「依家と申します」
「あ、連城沙絵の弟の、京太郎です」
「ママの自慢の弟さんですね」
「いや、そんな……」
「実は、詐欺グループを提訴する用意を進めていましたが、名を連ねていた人たちが全員取り下げてしまわれて、立ち消えとなっていたのですが、最近になってその中のお一人が勇気を出して手を上げてくださいましてね。もう一度、やってみようと言うことになったのですが……」
「肝心な姉と、連絡が取れないと言うことですよね」
「ええ……ああ、このラテは美味しい」
姉貴自慢のコーヒーマシンなのだから当たり前だ、と心の中で答え、俺はその先を促した。
「何で、提訴する予定だった人たちが取り下げることになったんですか」
「圧力ですね、一言で言えば。皆、この界隈で大なり小なり水商売をやっている人たちですから、土地のヤクザに凄まれたら怖いに決まっています。それもね、力での圧力だけじゃないんですよ」
「と、いいますと」
「ウチも、私の孫娘がランドセルを切り刻まれて帰ってきましてね。夕方、怖くて蹲って泣いているところ、女の人が通りかかって助けてくれまして、私の事務所の前まで送り届けてくれたそうです」
「家族にまで……」
「ええ。孫は恐怖のあまり、助けてくれた人のことを中々思い出せずにいましたが、つい最近、週刊誌に南雲梨華の写真が出た時、こんな感じの人だったと急に言い出しましてね。もしや、と思ったわけです。で、以前ママと撮った写真を見せたら、この人だと……孫は当時まだ1年生でした。3年生になってやっと、冷静に話ができるようになったのです。遅くなってしまって、大変に申し訳なく、警察に行ったその足で、こうして寄らせていただいた次第です」
「その、提訴する相手ってのは、南雲梨華と……」
「成田組の下部組織の頭で、斎藤洋二。それと、本友禅桔梗屋という展示即売会を開催した会社の社長・内藤明日香、の三人です」
「内藤明日香……それも組系なんですか」
「いえ、それが……名義を使われただけだと主張していて、社員の一人が洋二と組んで着物を横流ししたまでははっきりとしていますが、私は無関係だとは思っていません。展示してあった着物は確かに、明日香の名前がなければ引っ張ってこられないような逸品がかなりあったそうですから」
「何者です」
「梨華の姑、といえば早いかな」
てことは、代議士の妻? あの、梨華が婚約した内藤隆景の母親? それこそ、姉貴の姑になるかもしれなかった人?
そんなことってあるのか。
「その話、警察には……」
「警察にも政界に尻尾を振る穀潰しはいくらでもいます。ここのところ頻繁にコンタクトを取っていた刑事さんにだけ、お話してあります」
何も、俺は何も知らなかった。
老紳士・依家さんが帰った後も、俺はアパートに戻る気になれないまま、店で朝を迎えた。
姉貴に対する腹立たしい思いが燻って、どうにもならなかった。
そんなに俺はガキだったのか、頼りにならなかったのか。
どうしてこうまで俺は、姉貴のことを何も知らずにいたのか。
新宿の、周りの人間は皆、姉貴のいろんな顔を知っている。
俺だけが、知らなかった。
俺だけが、姉貴のことを何もわかっていなかった……。
陽炎のような姉貴。
この新宿で、多くの人に慕われ、その人たちの心に確かな足跡を残しながらも、俺だけが実態を掴むことのできない、正に陽炎のような姉貴。
俺は本当に、あの人を姉貴と呼んで一緒に暮らしていたのかと訝しむほどに、姉貴が遠くなりつつある。
姉貴……。
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