14.懺悔

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14.懺悔

 息をしていたかも分からない。  ただ、気が付いた時には、店のバーカウンターに座っていた。というか、座らされていた。  ここは新宿五丁目通りの『スナック沙絵』……姉貴の店。 「さぁ、少し気持ちを落ち着かせて」  政さんが差し出したマグカップからは湯気が立ち上っていた。何だろうと覗き込むと、ココアがかき回されて渦を巻いていた。 「多分、はっきりと分かるのは明日以降でしょう。私が連絡を待っていますから、京太郎くんはお部屋に戻って休んでいた方がいい」 「和貴は」 「まだ警察です。自宅にお送りしようかと思いましたが、荒らされたそうですね。1人ではかえって危険ですから、警察署内にいた方が良いと、久紀さんに仮眠室を手配してもらいました。やっぱり覚えていませんでしたか」  心配そうにそう言ってくれる政さん自身、ひどいクマを目の下にこさえている。つくづく、何でこの人が姉貴の男じゃなかったんだろうと思う。この人が姉貴の男だったら、きっと幸せに笑って暮らしているはずなのに……。 「政さん、姉貴とは、何で知り合ったの」  何となく、いつもはぐらかされてしまっていた質問を、俺はぶつけた。今日はもう、誤魔化しを察する余裕はない。直球で、教えて欲しい。  政さんはゆっくりと自分のカップをカウンターに置いた。 「そうですよね、話さなくてはいけませんよね」  静寂の隙間を埋めるように流れていたクラシック音楽の有線放送を止め、政さんは俺の顔を見ながら肩を上下に動かした。そして肚を決めたように息を吐いて、徐に告白を始めた。  私はとんでもなく驕った人間でした。  一応、それなりの大学を出ましてね、大企業と呼ばれるところに就職し、2年程務めて起業しました。まぁとんでもなく上手くいってたんですよ。すっかり天下を取ったような気分になっていました。まだ二十代のうちに起業、そして結婚、可愛い娘にも恵まれました。私たちは六本木ヒルズに住まい、世の中を見下ろすような勘違いをして生きていました。  友人と起こした会社はみるみる業績を伸ばし、業界人と言われる連中とも懇意になるうちに、益々黒い方へ黒い方へと、金を儲けることが人間の価値とでも言うかのように恐ろしいのめり込み方をしていったんです。  家庭なんか見向きもしませんでした。娘の誕生日も忘れ、結婚記念日も忘れ、実母を病気で亡くした妻に寄り添うことも、葬儀に参列することすらしなかった。大凡、人間ではなくなっていたんですね。  私が金の亡者となって調子付いていた頃には、妻はもう、壊れていたんです。共に起業した友人が気に掛けてくれるうちに、二人は深い仲となりました。今思えば、それでも良かったんです。妻の支えになる人間が側にいるのなら、私は黙って身を引くだけで良かった。なのに…… 「自分のことを棚に上げて、責めてしまったんです。友人との証拠を突きつけ、追い詰めてしまったんです。妻は、一言も私を責めず、反論もせず、私が銀座で遊んでいる夜に、娘を抱いて自宅のベランダから身を投げました……」 政さんは、そこまで一気に吐き出すと、両手で顔を覆ってしまった。  「警察からの知らせを、私は銀座の華やかな店の中で乱痴気騒ぎをしながら受けました。慌てて駆けつけるも、30階近いところから飛び降りて顔も形も判別できない状態で、胃の中のものを全部ぶちまけました。でもね、警察官に言われたんですよ、服装や指輪でわかりませんか、と。指輪は、していたんです。友人と深い仲になっても、私が結婚の時にプレゼントした指輪は、外していなかったんです。でもね、その時の私には分からなかった。妻がどんな服を好んで着ていたか、娘がどんな髪飾りをしていたか、なんて」  何も答えられず、俺は俯いたまま、政さんの告白の続きを黙って待っていた。何か背負っているとは思っていたが、これほどとは思わなかった。 「やがて、友人に経営権を奪われ、会社から追われ、家を手放し、もう何もかも失って手放して、捨てて、安酒を煽りながら流れ着いたのがこの新宿でしてね。ゴールデン街は、まだ学生だった私と妻が、未来を夢想しながらよく来た場所なんです。私には既に両親もありませんし、兄弟もおりません。奨学金で大学に通いながら、ギラギラした夢だけを追っていたようなバカな男でした。こんなバカな男に出会ったのが、そもそも妻の不運だったのでしょう」  一匹狼で道を切り拓いた男が、制御を忘れて金儲けに夢中になった……手に入れた栄光に酔いしれ、足元を見つめる時間を忘れた。よくある転落話のようでもあるが、その結末は余りにも酷すぎた。  政さんは続けた。  そして、ゴールデン街の店を追い出され、路地裏でしゃがみこむ私を介抱してくれたのが、まだ高校生だった沙絵ママだったのです。年上の、こんなどうしようもない男の話を、途中で遮ることなく最後まで聞いてくれました。そして、御苑で薬を煽って死んでしまおうと思っていた私に、当時はまだカラオケスナックでしかなかったこの店で働かないかと、言ってくださいました。後で聞いたのですが、ママは、ドラッグストアで睡眠薬を買い込む私を見ていたそうなのです。片手に安酒、片手に睡眠薬、分かり易い。まるで止めてくれと言わんばかりでしょう。そんなところまで、根性が腐っていたんですね、あの時の私は。死ぬ勇気すらなかった。  酒の作り方なんて知りません。クラシックを聞くような家庭環境でもなかったし、良い暮らしだと思っていた六本木の家にも、そんな文化的な空気があった為しはなかった。つくづく俗物でしたね。  ママの根気ったらありませんでしたよ。不貞腐れ、何もできない私に一から教え込み、音楽のある人間的な暮らしを教えてくれた。君がメキメキと上達をし始めた頃にピアノを聞かせてもらって、生まれて初めて、泣いたんですよ。正に、心を洗われたんです。まだあの頃は電子ピアノでしたけどね。  カラオケ機材が幅を利かせていて、ママの母親が店を開ける日は、ひたすら演歌で。沙絵ママが週の半分以上を担うようになって、この店はだんだんクラシックに満ちていったんです。 「このあたりからは、君の知る通りです」 「うん……ババアが蒸発する前の1、2年、殆ど切り盛りしていたのは姉貴だったけど、流石に経理までは分からなかったって。政さんが、経営のことや経理のこと、銀行とのやりとりとか、難しいところを全部引き受けてくれたおかげで凄く助かったって、事あるごとに言ってたんだ。だったら何故、政さんと付き合わないの? って、聞いたことある」  そう言ってココアを飲み干すと、政さんは豪快に笑った。 「こんな男、ママにはまるで釣り合いません。あの方は私にとっては神様、救いの女神様なんです。本格的にママがここを経営することを決めた時、私はこの人のためなら何でもしようと決めました。ママも、私をずっとここに置いてくださって……居場所を、作ってくださったんです」 「料理もきっと、作ったことなかったんでしょ」 「勿論。コメ一つまともに炊いたことありませんでした」 「凄いな。今じゃミシュラン並みに美味いと思うけど」 「言い過ぎですよ……ここで君と、ママと、当たり前のように共に居させていただけて、初めて人の温かさというものを感じています。そうなると、何でも覚えよう、やってみようと思えるものなのでしょう。40を目前にしたオッさんになって、やっと悟ったんですから、どうしようもないことには変わりませんね。おかげで、妻と娘が何故命を絶ってしまったか、その果てしないほどの苦しさと悲しさを理解することができました。私は、妻と娘に生涯を賭けて償います。許してはくれないでしょうけど、どんなに苦しくとも、この命を使い切ってからあの世で詫びます。ママともそう約束いたしました」  政さんはもう、ここにいて当たり前の人だ。ここは政さんの場所だ。 「政さんは、家族だよ。俺にはもう、頼れる大人は政さんしか居ない」 「……有難う」  鼻を啜り、政さんは誤魔化すようにカップを下げて洗い始めた。  そうなんだ、もう政さんしか居ないんだ、家族は。  政さんもまた、家族を失い、ここにやっと居場所を見つけたんだ。  傷を持つ人間ほど、この新宿のネオンの温かさに惹かれてやってくると、二丁目のどこかの店のママが言っていたことがある。俺も姉貴もここでしか生きたことがないから分からないが、この街の懐が深いのは間違いない。  誰かが見守り、その傷が癒えるのをじっと待っていてくれる。  姉貴も、そんな風に、傷ついた人間を見守る新宿の女、だった。  だった。  だったんだ……。
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