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15. 無邪気な悪魔
スマホのニュースを開けば、梨華の顔が画面を埋め尽くした。どのページもどのページも、同じようなショットの梨華の写真ばかり。この忌々しい顔を見たくなくて、俺はスマホの電源を落としていた。
和貴が何度も連絡をくれていたらしいが、一向に出ないので、心配して政さんに電話をしてきた。
俺の担当の超絶巨乳美人女史には早々に事情を話してあるし、大学にも忌引きで届けを出してあり、一週間、休むことになっていた。
一週間で、何とか戻りたい。
姉貴が必死に行かせてくれた音大だ。単位を落としたり、卒業できないなんてことは、申し訳なくて絶対にできない。
和貴も数日大学を休み、今日はもう学校に行っている筈だった。
「……京太郎? 」
政さんからスマホを受け取り、スピーカーにした。
「大丈夫? 」
「ああ。心配かけてごめんな。お兄さん達にも凄くお世話になって、改めてお礼に伺うよ」
「そんなこと良いんだよ……明後日、行っても良い? 」
俺は政さんと顔を見合わせた。政さんがゆっくりと頷き、俺も、頷いた。
「10時から、代々幡斎場だ。悪いな、面倒かけて」
「何言ってんだよ」
「有難う……」
それだけ言って、俺は通話を切った。
音大での生活、ピアノの音、ひどく遠いものに感じる。やめてはいけないと思いながらも、続けなくてはと弾きながらも、音が、全く頭に入ってこない。
今も、姉貴の好きな曲を弾こうかと思ってピアノの前に座ったのに、どこが真ん中のドか、目の前の譜面に書かれている音が何の音なのか、わからなくなってしまった。
「京太郎君」
心配そうに、政さんがピアノの前に回り込んで俺の顔を覗いた。
「……真ん中のドって、どこだっけ……」
白と黒の鍵盤が、歪んで見えた。
指も置けずにぼんやりしている俺を、政さんが背中から抱きしめてくれた。
「休みましょう。少し、ゆっくり休みましょう」
夏輝さんから、梨華の逮捕の経緯は聞いていた。とても誠実に、何も包み隠さず、夏輝さんは話してくれた。一緒に話を聞きながら、和貴がずっと手を握りしめていてくれた。
姉貴は、善意の塊のような女だった。昔で言うところの、『お節介焼き』というやつで、この街では大して珍しくは無い。昔からの住人は、それこそお節介を焼きながら、肩を寄せ合って終戦後の混乱期を生きながらえてきたのだ。
梨華は、そんな善意が嫌いだった。姉貴の些細な好意が癪に触った。
自分は女優の娘で元首相の隠し子で、ヤクザもバックについていて怖いもの無しだと言うのに、呆れるほどに男に相手にされなかった。プロポーションだって美貌だって、沙絵に遅れをとったりしないのに、と、徐々に姉貴への歪んだ嫉妬が底なしの悪意へと変わっていった。
「沙絵がさ、隆景と付き合い出して、内藤のパパは反対してるって聞いて……父親脅して内藤パパに私に鞍替えするよう命令させたの。私の方がいい女だし、あんな辛気臭い地味な女、隆景はすぐに忘れるって思った」
姉貴はあっさりとフラれた。隆景は、沙絵の姿をした梨華にすぐに夢中になった。梨華は、隆景の母と姉貴を共に陥れるつもりで、あの着物の即売会を計画した。結果、弱みを握られた母親は、内藤景明に梨華と息子の結婚を勧めた。梨華は晴れて婚約者となった。
「沙絵のやつ、それを根に持って、被害にあった奴ら集めて訴訟起こすって言いやがってさ。ウチの父親にもバレてカンカンになって怒られたもんだから、洋二に言って始末させた。あいつ、昔も一緒にクスリキメて、後輩とタバコ買いに行かせたら事故ってさ、バカだから車なんか乗るから、人轢いてさ。だから人殺しなんか何とも思わないんだよ。そん時逮捕されたのは後輩の方だけど、本当は運転してたのは洋二なんだよ」
タブレットで梨華の取り調べの録画を見せてもらっていたが、俺はそこで画面を止めて、夏輝さんを見た。
「亜弥の事だ。あの時、洋二は覚せい剤使用で逮捕され、運転していたと目された後輩の方は間も無く亡くなった。が、今回のことで洋二と梨華の繋がりが割れて、亜弥の事を私なりに調べ直していた矢先に、和貴が攫われ、ウチが襲撃された。和貴は、君の身代わりなんかじゃ無い、むしろ、君に迷惑をかけてしまったのは私たちの方だったのだ」
夏輝さんは頭を下げ、そしてタブレットの画面に触れた。録画はまだ続きがあるが、夏輝さんは停止させてしまった。
「続きは」
「ここから先は……」
言い澱む夏輝さんの手をどけて、俺はタブレットに触れた。
「……でさ、謝りたいから店の下まで来てって言ったらのこのこ出てきた。そう言う女なんだよ、偽善的で。ちゃんと被害者に謝ってお金を返すなら取り下げるわーって。何だそれ。だから車に乗せて、洋二に好きにしろって言ったら、手下のチンピラ呼んで飯能で殺したんだって。何でもクスリキメて皆でマワそうとしたらメチャクチャ暴れて、思わず首締めちゃったんだって。バカなんだよ、あいつ。ま、最期に男咥えて死ねたんならいいんじゃね」
机に頬杖をつき、梨華は下品に笑った。異様に歯だけが白く、歯茎が灰色にくすんでいて汚ならしい。服だけが異様に清楚で、気味が悪い。
「すまん、ここまで見せるつもりはなかった」
何度も停止を試みる夏輝さんの手を力ずくで押さえつけ、とうとう録画の最後まで俺は見通した。
最後に梨華は、こう言って笑った。
「親なんかさ、まともじゃないならいない方がマシじゃね。あの隆景もさ、私と一緒で結構なジャンキーなんだよ。キメないと女とヤれないバカでさ。でも覚えさせたの私じゃん、ウケる! 男もクズだし、親もクズ、ああ、私もクズ! ねぇ、タバコちょーだい、なんかさぁ、ここ暑く無い? ねぇ」
鼻にかかった声を上げながら、梨華がこれ見よがしに胸を張り出してニットの襟元をぐいっとくつろげたところで録画は終わった。
「梨華の尿からは、相当な量の覚せい剤の成分が検出されている。もう、完全な中毒症だ。隆景もすでに拘束し、覚せい剤使用で逮捕状を取っている」
姉貴を殺したことへの後悔、懺悔、そんなものはとうとう、一言も、それらしい表情さえ、出てはこなかった。
こんな、無邪気に笑いながら他人の人生を奪った顛末を話せる人間がいたということに、俺は衝撃を受けていた。こんな奴に、どうして出会ってしまったのか、何で同時代に同じ街に生まれ、育ったのか、どうして……不幸な巡り合わせが呪わしかった。こんな、恥も罪悪感も欠片とて持ち合わせない、無邪気な悪魔が張り巡らせた罠に、何故絡め取られてしまったのか……。
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