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3.坊ちゃん面目躍如
午後の授業が休講になったため、俺はスナック『沙絵』に和貴を連れて行った。取り敢えず店に譜面入りのクソ重たいカバンを置いてから昼飯を買いに行くつもりだったが、もう政さんが仕込みをしていて、手早くパスタを作ってくれた。
「う、うまっ!」
和貴は感激して、魚介たっぷりのクリームソースのパスタを頬張った。
「姉貴が好きなメニューなんだ」
口に一杯パスタを頬張りながら言うと、政さんがサラダを出してくれた。
「いつママが帰られてもいいように、材料は用意してあるんですよ」
あっという間に平らげていた和貴が、不安そうな顔を俺に向けた。
「お姉さん、どうかしたの」
「言ってなかったっけ。二年近く前、俺が音大入ってすぐ、開店準備の途中でいなくなっちまったんだ」
「嘘……誰かに呼び出されたの? 」
俺がどう言おうか迷っていると、政さんが目顔で合図をしてくれて、その先を引き取って説明してくれた。
二年前、中庸な公立高校から何とか音大への切符を手に入れ、楽典やら初見やら、全然レベルに達していない音楽専門教科の個人レッスンに通い詰めていた頃だった。受験でバイトもろくにできていない俺に、姉貴は文句ひとつ言わずにレッスン代を出してくれた。3月に入る頃には、そんなややこしい専門教科も何とか大学入ってもついていけるレベルにまで達することができた。そろそろバイトを再開しようかと思い、姉貴に相談しようと開店前の店に訪れたら、鍵もかけず、空調もかけっぱなしで、姉貴はどこかに言ってしまっていた。コンビニにでも行ったのだろうと思って待っていても、開店時間になっても、姉貴は戻ってこなかった。
政さんの判断で、俺達は警察に連絡をした。
「あれほど楽しみにしていた京太郎くんの入学式の日も、ママは戻ってこなかったんです」
あれから二年、これまで無事に大学に行けたのは、姉貴が予め俺名義の口座に学費分を確保しておいてくれたからだ。
「もうすぐ俺達3年だろ。そうなりゃ就活も始まるし……姉貴に仕事のことも相談したいんだけどな」
「あのさ、余計なことかもだけど……」
空になった皿に行儀よくフォークを置き、和貴は俺の方に体を向けた。
「僕の1番上の兄と2番目の兄、警察官、って言ったことあったっけ」
いや、めちゃめちゃエリートなんだろう事は想像ついていたけど……。
「一番上の夏輝兄ちゃんは警察庁の官僚だけど、2番目の久紀兄ちゃんは所轄にいるんだ、それも先月から代々木南署だから、ここの管轄だよ」
「す、すげぇな……でも、失踪人の管轄なのか?」
「それは兄ちゃんに判断してもらって、まずは話してみたらどうかな」
すると政さんがカウンターから身を乗り出す勢いで和貴の手を取った。
「お願いできますか。正直、何度相談しても、こう言う商売の人だからと言わんばかりに、あまり真剣に取り合ってもらえなかったんです。それで、京太郎くんもここ暫くは、あまり警察にも足を運ばなくなってしまっていて……」
「すぐ電話してみるよ」
「え、今? 」
幾ら何でもご迷惑じゃ……と思っていたら、1コールでお兄さんは電話に出てくれた。恐るべし、溺愛されている末っ子。
和貴はこんなのんびりした坊ちゃん気質だから余り気づかないが、多分、相当に頭も良いのだろう。要領を得ない俺の説明を、ものすごく端的に整理して忙しい兄貴に短い時間で全て説明してくれた。兄貴はそれ以上に回転が速いのか、わかった、とだけ言うなり電話が切れた。
「ごめん、ちょっと強引だったかな」
「いや、何か、凄く有難いよ。ありがとう和貴。正直、本当に手詰まりだったんだ。俺たちの話、本気で聞いてくれて、本当に、本当にありがとう」
政さんと俺は和貴に頭を下げた。
こんな突拍子も無い話を本気で聞いてくれて、躊躇いもせずに兄貴に繋げてくれて……今まで、こんな風に姉貴のことを話せた奴もいないけれど、こんな風に本気で動いてくれる奴なんて全くいなかった。
「兄ちゃん、多分いつになるかわかんないから、先に弾いてようよ。政さん、使わせていただいて良いですか」
「勿論ですよ。ひとしきり弾いたら、おやつを用意しますからね」
「わあい! 」
子供か……無邪気にはしゃぎながらも、和貴は皿をカウンターの中にきちんと下げ、手をちゃんと洗ってからピアノの方に駆けていった。
「うわぁ、本当に白いピアノなんだ! え、これShigeru Kawaiじゃんっ! 」
そう。国内産の名器。色んなピアノを弾き比べて、このピアノが一番この場所に合うしっとりとした響きで、音に伸びがあって、気に入った。ただ、値段は普通の国内メーカーのものより数段高いので、俺は夢だけに止めようとした。だが、姉貴はこれを買ってくれたのだ。
「私も、京ちゃんの音色には、この子が一番合うと思うわ」
試弾にずっと付き合ってくれた姉貴は、そう言って笑った。
とても夜の商売をしているようには見えない、清純な笑顔だった。
姉貴はいつも、夜の空気を夜にさえ纏わない。真っ直ぐで、だけど胆力があって、凛として……誰よりも美しい。
姉貴の綺麗な笑顔を思い起こしていると、ショパンのバラード4番が聞こえてきた。和貴が弾いている。俺なんかより、数段、上手い。
「彼は真っ直ぐですね。音楽にも表れています。技術もさることながら、ひたむきさが柔らかな音色となって、人の心に染み込むようです」
「そうだな」
「でも、京太郎くんのように、誰かの背中を押したり支えたりするような、ちょっと控えめで優しい音楽が、どちらかと言うと私は好みですがね」
政さんはそんなことを言って俺にウインクした。
二丁目でそれやったら、無事に帰ってこられないぞ……。
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