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5. 姉貴の影
翌日、授業が別々で和貴に会えなかった俺は、開店前にギャラを届けに行こうと、京王線の笹塚駅を降りた。ここから代々木上原の方に十分くらい歩いたところに霧生家の屋敷がある。
和貴は霧生で『き』だし、俺は連城で『れ』だから、クラス分けの細かい専門教科のクラスはてんでバラバラで、時間も合わないことが多い。それだけを以てしても、あんな学年トップを誇る腕前の奴と組んで弾いている自分の境遇がちょっと信じられなかったりする。
消防学校の脇を抜けて、元々水路だったと言う道路脇に続く公園をまたぐと、大山町というお屋敷街がある。坂道が多く、以前酔っ払った和貴を送って歩いた時は、こっちがバテてしまいそうだった。
確か……と記憶を頼りに到着した屋敷は、酔っ払いが夜中に見た光景よりも遥かに豪華であった。
純和風な作りだが、広い敷地の中によく手入れをされた花壇があり、芝生を取り囲んでいる。ガレージには、ワンボックスの他に、SUVとスカイラインのR35がある。
「あれ、京太郎くん」
あの、芯がゾクゾクするような声で名を呼ばれ、俺はドアホンを押す手を止められずに思わず連打してしまった。
「す、すみませんっ」
現れたのは、ジーパンに長袖のTシャツという姿の光樹さんだった。昨日の晩とはまた全然違う雰囲気で、メイクもせずに、肩までの髪を無造作にゴムで束ねている姿は、やはり和貴と共通のDNAをしっかり感じる。少し幼く見える、というか、微笑まれたら死にそうな程に笑顔が美しい。
「昨日は驚かせて悪かったね。上がって上がって、和貴も直に帰ってくるから」
「え、和貴、いないんですか」
「あの子、金曜日の夕方は近所の子にピアノ教えに行っててね。今日は二軒だから、あと30分くらいかな」
「そうとも知らずに、約束もなく来てしまってすみません」
俺が頭を下げると、光樹さんは優しく笑った。ああ、死ぬ……。
「律儀な子。お姉さんのお仕込みが素晴らしいんだね。さ、お茶入れるから、構わず上がってよ。だいたいあの子が君にちゃんと言わないのがいけないんだから。ほら、遠慮しないで」
では、おとこばに甘えて、いや、お言葉に甘えて……とグタグタ言う俺を、光樹さんは園芸用グローブを外しながら楽しそうに眺めていた。
南が一面ガラス張りになって芝生の庭を眺めることのできる壮大なリビングには、燦々と陽光が差し込んでいた。
「どうぞ」
その広大なリビングを見下ろすように一段高い位置にカウンターキッチンがあり、俺はそのスツールに座るよう促された。
そのキッチンがまた凄い。何ならレストランの厨房ですかってくらいで、専門的な調理器具なんてのも、何に使うかはわからないが、並んでいる。
「紅茶、大丈夫? 」
「はい、いただきます」
香りがいい。和風のティーカップに注がれたお茶からは、微かにミントの香りがする。姉貴も、ミントを入れるのが好きだった。
「美味しいです」
「ウチの庭のミント。あ、これね、明日用の試作で作ってみたんだけど、ちょっと味見してみて」
出てきたのは、皿に並んだ色とりどりのマカロン……赤いマカロンを口にすると、ほんのり甘酸っぱかった。
「それ、グランベリー。どう? 」
「お酒にも合いそうですね。ほんのり甘酸っぱくて、後引きそう」
「さすが、スナック経営者」
「け、経営はあくまで姉貴です……まぁ、雇われピアノ弾き、みたいな」
光樹さんは笑いながら、俺に向かう合うように、厨房側に折りたたみのスツールを広げて座った。
「明日の仕事って、何ですか」
「ああ、ケータリング。ドラマの撮影のロケ地に持っていくんだ。あ、ほら、柿の木坂48のカバだかイカだか……」
「伊庭ふみえ、ですか」
「そうそう、その子が出るらしいよ。サインもらってこよっか」
「い、いいです」
両手で紅茶を抱え込む俺の顔を、細長い首を伸ばすようにして光樹さんが覗き込んできた。
「女の子、興味なし? 」
「うわっ……」
思わずソーサーの上にカップを滑り落としてしまった。白いシャツに紅茶が跳ね、ごめーん、と言いながら光樹さんが回り込んできて湿った布巾で押さえてくれた。
「こうしとけばシミにならないから……変なこと言ってごめん。免疫あるのかと思ったんだけど、まだお子様なんだね、京太郎は」
「いや、その、俺は……」
「和貴もね、夏輝兄さんが超絶大事にしすぎて、本当に免疫ゼロなんだよね。悪い女か悪い男に騙されないか、心配。でも、君がそばにいてくれるなら、安心だよ」
「いや、俺なんか……あんな優秀な奴と一緒に演奏できるだけで楽しいんで」
んん? と一瞬眉を顰め、光樹さんは自分の席に戻っていった。
そして暫く、その白魚のような手の中でマグカップを弄び、言葉を選ぶようにして話し出した。
「和貴は京太郎と仲良くなってから、すごく明るくなった。毎日あんなに楽しそうに大学に行くようになるなんて、小さい頃のあの子からは想像できなかったくらい。君のおかげだと思う」
そうじゃない。俺の方が和貴に救われているんだ。いつも一人で音楽にしか向き合えるものを持たなかった、いや持たないようにしていた俺に、和貴は一緒に演奏する楽しさや、馬鹿話をして酒を飲む楽しさを教えてくれた。奴と出会うまで孤独な学生だった俺を、政さんは随分心配してたと思う。そのせいか、今は姉貴の好物と和貴の好物の材料が、必ずあのカウンター内に用意されている。恐るべしリサーチ力である。
保温ミトンを被せてあるポットから、光樹さんが紅茶を注ぎ足してくれた。
「私と久紀だけど……多分、離れたら、どっちか死んじゃうんだよね」
「え、死んじゃうって……」
また言葉を探すように、光樹さんが口をつぐむ。そして、俺を優しく見つめる。きっと大事なことを言おうとしているのが分かるだけに、俺は目を逸らすことはしなかった。
「夏輝兄さんも久紀も、私とは血が繋がっていない事、知ってるよね」
「え、はい」
「だからね、両親が死んだ時、出て行こうとしたんだ。保険金だって遺産だって十分あるのに、夏輝兄さんは自分の為にはちっとも使わないで、折角決まっていたハーバード大への留学も諦めようとしたんだよね。だから、荷物になるくらいなら、って出て行ったら……新宿でさ、変な男に変なことされちゃったわけよ」
二の句が継げない。微かに頷くので精一杯である。
「久紀が助けに来てくれて……死のうとした私を、綺麗にしてくれたんだ」
「綺麗に、とは」
「上書き。変な男がした事を、全部し直してくれた。だから、私の初めては、あの変な男じゃなくて、久紀ってことに私の中では上書きされてる」
マカロンの甘酸っぱさが、口の奥から蘇ってきた。
「私がお願いしたんだよ、いや、脅迫か。してくれないなら死んでやるって。元々親が再婚する前から、久紀のことは知ってたから。久紀が笹塚の駅前でバイトしてるときなんて、彼氏だったらなぁって、超邪な気持ちで見てたし。勿論すんごい嫌がったし、拒絶されたし、あいつ彼女もいたし女にモテたしね。でも、私がそういうの、全部捨てさせちゃった。悪い奴だよね、そう考えると」
さらっと笑顔で話しているけど、そんなに軽い話ではない。そこには、痛みで悶えるような傷があって、東京タワーから飛び降りるくらいの覚悟があった筈だ。でもその時苦しみ抜いたであろう暗黒の時間の経過が、光樹さんからは感じられない。この人からは闇を感じない。光だ、むしろ。久紀さんはきっと、この人の光を消さないよう、大切に愛しているのかもしれない。
「夏輝兄さんにさ、久紀はこてんぱんにシメられてさ。二人とも空手と柔道と剣道は有段者だからね。まぁ、元の顔が分からなくなるくらいブン殴られてたわ。私の母に申し訳が立たんっ! て。何か想像つくでしょ。でね、私が久紀を誑かしたんだから、私を殴れっ、て前に出たら、夏輝兄さん、お前に手は挙げられないって。すまない、って。ただ愛してるだけなのにね、だって愛しちゃったのよ、あいつを。尤も、向こうは義務と脅迫の成れの果てかもしれないけどさ……だからね、久紀を守るために私も強くらなきゃって思って、修行したんだ」
「そ、それで柳生新陰流……」
「あら知ってたの。そう、それ。愛の力って凄いよねぇ、あっという間に目録もらっちゃった。でも今はさ、諦めたのか知らないけど、夏輝兄さん、何も言わなくなったな。その代わり、私達みたいな穢れた大人にならないようにって、和貴は箱入りにして超絶大事にして甘やかしてもう、大変」
と、光樹さんはウインクをした。ああもう、久紀さんでなくても堕ちますって。もう、冷めきった紅茶を口に運ぶ余力も失い、呆然とするしかなかった。
「何で君にこんな話したんだか……君とお姉さんのことを知って、ちょっと昔を思い出しちゃったのかな。血が繋がっているのは和貴だけで、それも半分だけで……でも、この家に皆で住んでいると家族なんだよね。優しい家族。だから、見失ってしまったら、きっと正気じゃいられない。君は凄いよ」
「いえ、別に俺は……」
「お姉さんが帰ってくる事を、心の底から信じているだろ」
それは、はっきりと言える。
「はい」
俺の返事に、光樹さんが頷いてくれた。
「探そうね、一緒に」
やばい、涙が溢れてきた。喉の奥から感情がこみ上げてきて、俺は礼の言葉も言えないまま、ただ頭を下げ続けるしかなかった。
そこへ、レッスンを終えたであろう和貴が帰ってきた。
「ちょっと、何泣いてんの? 光樹兄ちゃんに襲われたの? 」
素っ頓狂な声に、俺も光樹さんも、思わず笑ってしまった。
こういう奴だよな、和貴って。
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