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7.ゴシップ
ピアノ科、声楽科、弦、管、打……それぞれの専攻によって、学生たちの毛色にも大分違いがある。ピアノはどうしても舞台では横顔だけしか客に見えないので、地味だったり、衣装や弾くポーズに無頓着だったりするのが多いのだが、声楽科は自分を魅せてナンボなだけに、前へ前へと出るタイプが多かったりする。
今、和貴が半ベソかきながら伴奏している女も、典型的な声楽科の女である。どんだけ早起きしてんだと呆れるくらいに巻き巻きした長い髪に、ばっちりメイク、さして巨乳でも無い胸の谷間を強調するかのごとくデコルテを見せびらかすワンピース。それも、結構タイトめ、というか、上半身がガッシリしているのだ。ブレスを多く入れる為に、彼らは腹筋を鍛え、横隔膜を柔軟に保っている。胸板は厚く、千人規模のホールでも後ろの席にまで声が届くだけのスタミナもある。もちろん、よく食う。
いや、一応これは、あくまで渡辺千紗の場合、としておこう。
今日は店が休みなので、授業が終わった俺たちは練習がてら『スナック沙絵』に来て、ピアノを弾いていた。和貴が千紗のオーディションの伴奏を引き受けた縁で、度胸試しにウチの演奏コーナーで歌わせて欲しいとのことだった。だったら、俺に聞かせろ、という成り行きで、ここに至っている。
千紗はソプラノで、声は抜群に良い。まぁ典型的なお姫様気質だが。ここで度胸をつけて、歌劇団のオーディションに挑戦するのだとか。
「ちょっと和貴、そこさ、もっと私の装飾音符をしっかり聞いて待っててよ」
「ええ、でも、長すぎると音が消えちゃうよ……」
「関係ない! 伴奏でしょ、アタシの言うこと聞いてよ」
伴奏だと? 下僕の間違いだろう。
「千紗、伴奏者を下僕にすんな。共演だぞ。ピアノが入って初めて一つの曲になるんだから、おまえも和貴の音をよく聞けよ。いくらオペラのアリアで好き勝手に伸ばす部分だとしても、オケと違ってピアノは減衰するから、途中で完全に音が途絶えるとこっちのフレーズが繋がらねぇんだよ。相手の楽器によっても表情は違うんだから、少しそういう段取り寄せてこいよ」
「何それー! 和貴に問題ないっての? 」
千紗は一応声に配慮しながら、金切り声を上げた。ソプラノが怒ると五月蝿い、本当にウルサイ。店中にビンビン声が響きまくって、耳が壊れそうだ。
「和貴も、もっと長いフレーズのところはどんどん前に送ってやらないと。拍子をタテに刻みすぎて、それじゃ千紗の息が持たねぇよ。それと、ドイツ語の子音を聞いて出るくらいで良いから、いちいち先走るな」
これでどうだ、と千紗を見ると、千紗はねっとりと俺を睨んできた。
「そこまで言うかなぁ。あんたたち付き合ってんでしょ、幾ら何でも、言い過ぎじゃない? 」
「は?」
なんだそりゃ。
だが、してやったりとばかりに千紗は腕を組み、ドヤ顔をして俺を見た。
「あんた達いっつも一緒じゃん。和貴なんて女の子みたいに可愛いから、絶対京太郎に無理くり付き合わされてるって皆言ってんだから」
「ふざけんな! てめぇの唯我独尊な歌作りで上手くいかねぇのを人のせいにして、あ? 付き合ってるダァ? 頭沸いてんのか、こら」
「京太郎、京太郎! 」
宥めようとしてオロオロとピアノから離れて近寄る和貴をカウンターに座らせ、俺が代わりにピアノの前に座った。
「歌ってみろよ」
同じ曲を前奏から弾きだす。
こういう客席に近いところで弾き慣れてくると、力の加減てものがよく解るようになる。場所の規模や客の距離も考えずに叫ばれて、心地良い筈がない。
「少し前に運べ、そこ、張るな、ここはオーチャードじゃねぇぞ……」
文句を言いながら、俺が軽くいなすように弾いてみると、千紗は少し驚いた様子でピアノを振り仰いだ。
「ねぇ、日本歌曲もいい? 」
初見だが、別宮版の『さくら横丁』を出してきたので、素直に弾いてやった。これは音作りが繊細で難しい。少し体に力が入ると、始めの音がそっくり返って台無しになる。
合わないところは幾つもあるが、取り敢えず通してみたところで、和貴が大げさに頷きながら拍手をしてきた。
「京太郎の指摘が凄く良くわかった。やっぱ京太郎の伴奏、良いよ、凄く」
千紗も、その言葉に納得したように、うんうんと頷いた。
「凄く歌いやすいし、ふわっと乗せられて、気持ちいい」
「千紗は声は抜群なんだから、力入れずに、目の前の客に歌詞の世界を伝えるつもりで歌ってみなよ。それにはさ、和貴、あんまりピアノが音量煽ると歌いにくいけど、ショボいと世界に入れないんだよ。少し演じるくらいに弾かないと。特にウチの常連は音楽聴き慣れてるし、ここにはリラックスしに来てるから、大仰な表現はいらないんだよ。繊細に、細かく演じるってのかなぁ」
声楽科のナンバーワンと、ピアノ科のナンバーワンに、なんてこと言ってるんだ俺は……と思いつつも、つい、店を開ける方の立場で物を言ってしまった。まぁ、ナンバーワンが必ずしもアンサンブルが得意だとは限らない。これも向き不向きが大いにある。
千紗が例の如く腹が減ったと騒ぐので、近くのコンビニに俺が買い出しに行くことにした。その間、よく練習してろよ、と。
素直にコンビニに行けばよかったのだが、この近くでピザの美味い店があるのを思い出し、煌々と明かりが灯るコンビニの前で方向転換しようとした時だった。一人の女が、レジ袋を手にコンビニから出てきた。その風貌が、余りに姉貴に似ていて、思わず俺はその女の後を追い始めてしまった。
クラシックローズのような色のプリーツのワンピースに、白のカーディガン。毛先だけ少しカールさせた肩までの髪。折れそうなほどの足首にハイヒール。店に出るときの姉貴の好きなスタイルだ。だが、姉貴はもっと肩が華奢だったかもしれない。
そんな違いに気付いた時、俺はもう5丁目の交差点が見える大通りの歩道に出ていた。
この辺り、もう18時を過ぎた時分ともなると、仕事終わりのサラリーマンでごった返す。しかも今日は金曜日だ。おミズ系の姉さん達も、髪のセットに着付けにと走り回る頃だ。そして19時までには同伴の約束を漕ぎ着けて夕飯にありつくのだ。
女は五丁目の交差点へと早足で歩いていく。俺、なんでこんなことしてんだか分からないが、直感がやれというのだから仕方がない。
と、向こうからツバ広の帽子を被り、ベルベッド地の赤いドレスに身を包んだやけに背の高い女が歩いてくる。と、俺をつけている女に一瞥をくれると、足を止めて女の背中を目で追うように見送った。丁度交差点が青信号になり、女が小走りになった。慌てて追いかけようとすると、ツバ広の女が俺の腕を掴んだ。腕も手も、やたらと触られるのは好きじゃない。試験前など、指を怪我できない状況下では、つい毛を逆立てる猫のような拒絶反応を示してしまう。
案の定、咄嗟に振りほどいた俺に驚いたように、女は帽子のツバを上げて、俺に顔を見せた。
「京ちゃん、アタシよアタシ。茉利子よ」
俺はマジマジと女の顔を見た。
「何だ、茉利子ママじゃん」
この背の高いツバ広の女は、五丁目でクラブを経営している茉利子ママ。といっても、オネエさんの店で、働いているのは全員ニューハーフ。茉利子ママは工事こそしていないけど、心は女、というタイプである。
尾行していた女は、とっくに交差点の向こうに消えてしまった。クソッと口の中で悪態をついて見送る俺に、茉利子ママが同じ方向を見ながら言った。
「やっぱりあれ、梨華よねぇ、南雲梨華」
「梨華……知ってるの? 」
「ほら」
ママは、手の中で丸めていた週刊誌の表紙を俺に見せた。
「今度代議士の御曹司と結婚するらしいわよ。この辺じゃ有名な遊び人なのにね。遊び人どころじゃないわ、ワルよワル。沙絵だって大分迷惑かけられたはずよ、あの子には」
「……ああ、思い出した。中学の同級生、姉貴の。だから見たことあったんだ。あれだよね、確か女優の……」
「そう、母親が女優の南雲洋子。梨華がゴールデン街の祖母の元で育ったことは、この街の人間なら誰でも知ってる。母親の洋子は、成田組の先代の落とし胤っていう噂もあるしね。たかが街の噂だとしても、週刊誌にはもってこいのスクープだわ」
ママは俺の胸に週刊誌を押し付けた。
「占い、今週さそり座は最悪みたいでさ。癪にさわるからあげるわ」
「ありがとう。また店に来てよ、ドビュッシープレゼントするから」
あら嬉しい、と俺の頰をツンツンして、ママは腰を揺らしながら五丁目通りに折れていった。
確か、この前、久紀さんが政さんにみせた名前のメモ、書いてあった名前は『南雲梨華』だった気がする……。
考え事をしながら、結局何1つ買わないまま店に戻った。
店のドアを開けようとしたら、取っ手が壊されているのに気がついた。
「おい、千紗、和貴」
嫌な予感に背中がむず痒くなるのを堪えながら、俺はドアを開けた。
足を使って蹴り押すようにして開けると、明かりが点いたまま、テーブルなども派手に転がったまま、いかにも荒らされた様子に変わり果てていた。
和貴がいない。
「千紗、千紗っ」
すると、カウンターの陰から千紗が飛び出してきて俺にしがみついた。
「和貴は」
「それが……怖そうな人たちが入ってくるなり、和貴を連れていっちゃったの! 警察よね、警察! 」
和貴、俺と間違われたってことか。
「待て、警察ならうってつけの人がいる」
すぐに久紀さんに連絡を取った。まさか、こんな風にお兄さん達の連絡先が役に立つだなんて……あのスーパー坊ちゃんが、この辺りの荒くれ共に力ずくで拐われて、今頃どんな恐怖の中にいることか……。
久紀さん、夏輝さん、光樹さん、そして政さんの順に電話したものの、一番早く到着したのは、町内のマンションに住んでいる政さんであった。
「京太郎くん、怪我は」
「俺は何も無ぇ。それよりこういう時だから、千紗を送って欲しいんだ。頼まれてもらえるかな。折角の休みの日に、本当にすまない」
「そのつもりです。車で来ていますから、すぐに出ましょう」
政さんは、足元のふらつく千紗を抱え上げるようにして立たせた。
「で、でも、私の家、所沢だけど……」
「ならば青梅街道で一本ですよ、お安い御用です。怖い思いをさせてしまいましたね」
政さんと千紗を見送り、俺はカウンターの中に入って水を飲んだ。
和貴が俺と間違われた。
なら、俺を拐う目的は何だろう。やはり姉貴が絡んでいるのだろうか。
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