9.大人とは

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9.大人とは

 代々木南署の殺風景な一室。ネオンが窓から差し込み、コップの跡がいくつも残ったままの長テーブルが三つ、コの字になって並んでいる。ガタガタと足元の不安定なパイプ椅子に腰を下ろし、桜の紋章の額縁だけがかかっているシミだらけの壁を眺めていた。  とっくに茶も冷め、暖房も効かなくなっているのか足元から冷え始め、無意識に俺は指を包み込むようにして温めていた。指が冷えるのは嫌いだ。 「あんたが連城京太郎か」  久紀さんとはタイプの違う、如何にも胡散臭そうなオヤジ感丸出しのオッサンが、面倒くさそうに欠伸をしながら入ってきた。手にはファィルを持っている。今時はタブレットって思ったが。  テーブルを挟んで向かい側に、オヤジはイスを移動してどっかりと腰を下ろした。腹は出ているし、ワイシャツはサイズが合っていない。スラックスもヨレヨレの安普請で、ジャケットは無し。寒くないのかと思いきや、首筋にねっとりと汗をかいている。心臓でも悪いのか。 「音大生ねぇ……お姉さん、どっかの組の愛人? 」 「ああ? そんなんじゃねぇよ」  姉貴を侮辱されて腹立ちまぎれに答えた俺の頰を、いきなり奴は引っ叩いた。これ、今はやっちゃいけない筈だよな。 「口の利き方気をつけろや、新宿のドブネズミが」  こいつは何を言っているんだ。 「霧生警視の御弟君が拉致されたのは、お前のせいだろ。何やった、脱法ハーブか、シャブでも手出したか。成田組は、昔気質の坂田組と違って、ヤクをシノギにしていやがる」 「俺も、姉貴も、組には関係ない。南雲梨華って女の事は調べたのかよ。女の後を尾けたた途端、和貴が拉致されたんだ」 「だからぁ、その南雲梨華と組んで、御弟君を狙って、お目溢しでも狙ったんじゃないのか」 「話を聞けよ! 」  これだ、これなんだ。姉貴の失踪を幾ら訴えても、痴情のもつれだの、男関係だの、好き勝手言われた。初めから水商売の新宿生まれの場末の子と見下して、こちらが悪いとさえ言い出しかねない酷い態度で。  もう沢山だ、そう言い捨てて立ち上がりたかった。でも、和貴が犠牲になった以上、こんな屈辱は耐えなきゃダメだ。友人が何故こんな目にあったのか、姉貴に関係があるのか、もういい加減、明らかにしなくては。 「南雲梨華は、姉貴と中学の同級生だ。俺はあまり記憶がない。ただ、今日会った南雲梨華は、姉貴に雰囲気がとても似ていた。というか、姉貴の好みを真似ているかのようにも思えた。だから、つい、尾行してみた。でも、途中で知り合いに会って梨華を見失い、店に戻ったら和貴が拉致されていた。以上」  そうだ。まるで姉貴をコピーしたかのような、そんな雰囲気だったんだ。俺が微かに覚えている南雲梨華は、ひたすら派手で、顔立ちも派手で、何もかも派手で、自分が一番目立たないと気が済まないような、そんな女だったような気がする。そう、姉貴とは真逆だ。姉貴は、何にでも派手で節操がない程の母親に反発し、いつも地味なくらい大人しい服を好んでいた。店を継いでから、少しずつファッションも洗練されていったが、決して派手好みではなく、本当は良い家の落とし胤なんじゃないかと思うくらい清楚だ。そんな姉貴が、綺麗な姉貴が、頭が良くてセンスが良くて、思い切りが良くて大胆で、男みたいに判断力と胆力に富んでいる姉貴が……自慢だった。 「京太郎君! 」  そこへ、ノックも無しにドアが開き、政さんが血相変えて駆け込んできた。 「大丈夫か」 「あんた何者だ、ヤク仲間か。ああ、あんたのツバメか、この小僧……」  オヤジが最後まで言い終わらないうちに、政さんの豪快なストレートが炸裂した。政さんが怒っている。肩を怒らせ、目に涙を溜め、酷く怒っている。 「この子は二年前からずっと、あんた達にこういう目に遭わされてきたんだ。18の学生が2年もの間、たった一人の肉親を馬鹿にされ、侮辱され、追い詰められ続けてきたんだ。良い大人がする事か! 」  口の端から血を流しながら、オヤジはへへっと笑った。公務執行妨害とでも言うつもりか。尚も殴りかかろうとする政さんを必死に止めようとしていると、夏輝さんが駆け込んできた。 「何をしている! 」 「け、警視、この男がいきなり私を……公務執行妨害で逮捕だ! 」 「黙れ、彼は善意の情報提供者だ。それを取り調べ同然に追い込んでいたことは、映像を監視していた監査部の連中が見ている。職を失いたくなかったら、そのファイルを置いて出て行きたまえ」  オヤジはパイプ椅子に躓きながら、よろよろと出ていった。 「すみません……夏輝さん」  謝る政さんに、夏輝さんは無言で頷き、座るように勧めた。自分も、オヤジが座っていた椅子に腰を下ろした。  オヤジの残像が消えるくらい、品の良い顔立ちが目の前に迫った。 「無茶をしすぎだ」 「すみません……和貴をあんなに危ない目に合わせてしまって」 「あの子は大丈夫だ。ああ見えて切り替えが早い。それより、南雲梨華のこと、2年前から今まで君の証言から出てきたことはなかったが」 「記憶には殆どないんです。聞かれなかったら思い出しもしなかったと思う。とにかく派手な女、くらいで。スナック継いでからは殆ど姉貴も関わっていなかったし。ただ……万引きだのチンピラとの付き合いだの、悪い噂みたいなのは、街の人たちから聞いてます。姉貴は俺には何も言わないけど、姉貴自身、迷惑被ったことがあったみたいで」 「それで」 「姉貴に雰囲気が似ていて、で、後を尾けたら知り合いに会って、尾けてる相手が南雲梨華だと初めて知って、女のゴシップのことを知って……」 「和貴を攫ったチンピラは、南雲梨華に命令されたことを吐いた。成田組とはだいぶ深い付き合いらしい。だが、君も知っての通り、民自党の大物代議士の息子との結婚が決まって、痕跡を消すのに躍起になっているようだ。この先は、私に任せて欲しい。君はもう、手を引くんだ。巻き込まれたりしたら、それこそ姉上が悲しまれる」 「何かわかったら……何でも良い、何かわかったら、必ず教えて欲しい」  こんな、場末のスナックでピアノを弾くしか能のない若造に、警察が情報を流してくれるとは思わないけど……。 「約束しよう」  それなのに、夏輝さんに請け負ってもらえると、信じられる気がしてきた。 「政さん、京太郎君を」 「ええ。あ、あの刑事さんは……私、派手にやりましたけど」 「それも任せてください」  夏輝さんは肩を竦めて苦笑してみせた。こんな砕けた表情するんだな。 「夏輝さん、和貴に会えますか」 「一泊したら家に帰れる。君も今日はゆっくり休んで、落ち着いたら家においで。光樹も数日仕事を休むと言っていたから、何か美味いものを拵えるだろう」 「そうじゃなくて、俺は、和貴に……」 「君は何一つ悪くない。謝ろうなどと、考えなくて良い」  言葉は少ないが、『心配いらない』という安心感を背中で示して、夏輝さんは出ていった。 「政さん……」  二十歳なんか、何の役にも立たないガキだと思い知り、周りの大人の足元にも及ばないヘタレ加減を思い知らされて落ち込んでいる俺の頭を、政さんが撫でてくれた。いつもなら子供扱いするなと払いのけるところだが、今日は酷く暖かく感じられて、優しさが沁みてくる。  とにかく泣きたくなくて歯を食いしばったまま署の建物から出た俺を、政さんは愛車の助手席に乗せた。  大ガードを潜る頃にはもう、不夜城新宿が生き生きと動き出していた。ネオンがやけに優しく感じるのは、俺がここで育ったからだろう。 「園子ママのところに、沙絵スペシャルを食べに行きましょう」  政さんの提案に、俺は黙って頷いた。  頭の中を整理したい。そのためにも、この街の力を借りたい。    
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