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1.スナック・沙絵
西武新宿のぺぺを背にして、靖国通りを新宿五丁目の交差点まで進み、更に右手に成覚寺が見える信号を左に折れた辺りは、昔からの飲食ビルがポツポツと、それこそ取り残されたかのような昭和な佇まいで並んでいる。
新宿五丁目成覚ビル。その二階に、俺の姉貴が営む『スナック沙絵』がある。決して大きくも派手でもない。ただ、姉貴が子供の頃から欲しかったという白いグランドピアノが鎮座し、その曲線を囲むかのようにカウンター席がある。ボックス席も四人掛けが3セットほどあり、更に、ウチの最重要従業員であるバーテンの政さんが腕を振るうバー・カウンター席がある。
バー・カウンターは3人座れば暑苦しいくらいで、常連は皆、ゆったりと無言で過ごせるピアノカウンター席を好む。バーカウンターに座るのは、大抵この街の住人だ。
クソ重たいベートーベンソナタ集の二巻を入れた鞄を背中に担いで店のドアを開けると、仕込みを始めていた政さんが、二丁目全域を虜にすると誰もが認める微笑みで、俺を迎えた。
「お帰りなさい、京太郎君。レッスンは如何でしたか」
政さんの前歴はよくわからない。姉貴に拾われて、いつの間にかこの界隈の住人となり、うちのバーテンになっていた人。立ち居振る舞いも、その立ち姿も、掃き溜め育ちには到底見えない。だが、この人は決して昔のことを話そうとはしない。だから、俺も聞かない。それがこの新宿の流儀だ。
「超絶巨乳美人女史の癖に、下手だポンコツだと、クソミソだった」
俺はカウンターに鞄を放り投げて椅子に座り、ヒンヤリと心地よい木目のカウンターに頰を押し付けた。秋とはいえ、新宿からここまで歩くと流石に汗ばむ。しかも、ベートーベンを担いで。
「仕方ありませんよ。先週は大分お店が忙しかったですから、あまり練習できなかったでしょう」
この店のグランドピアノ、これを弾くのは俺の仕事だ。
姉貴はこの街で生まれた。俺も。この店は母親から姉貴が引き継いだものだ。勿論、初めはカラオケが鎮座して、タバコ臭く騒音まみれのスナックだった。しかし、母親が男と蒸発した後、まだ高校生だった姉貴はさっさとこの店を改装し始めたのだ。カラオケは売っ払い、全席完全禁煙。銀行を拝み倒して入れたのが、この白いグランドピアノ。俺の為に・・・。
姉貴のお陰で、俺は音大に通えるようになった。アパートの電子ピアノでは俺の才能は開花しないの何のと、まだ中坊だった未知数の俺の為に、姉貴は銀行に頭を下げてまでピアノを買ってくれたのだ。
だから、この店の名は『ピアノバー・沙絵』が、正しい。
でも、この街ではスナックと呼んだ方がわかり易い。
やはりここは『スナック・沙絵』
姉貴の青春時代と引き換えに買ってくれた白いグランドピアノで、俺は今日もショパンを弾く……。
「やはり、京太郎君のショパンは良いですね」
今日の客はしつこかった。何度も何度もショパンのバラードを、しかも4番ばかりリクエストしやがった。お陰で肩も腕もガチガチで、頭からは湯気が出ている気がする。
「バラードの4番、沙絵ママもお好きでしたね」
カウンターに腰を下ろした俺に、政さんがオシボリを差し出しながら呟いた。むしろ姉貴こそ、本当の音楽好きだった。それもクラシック。
「京太郎君には自分にない才能がある、が、ママの口癖でした」
「まぁね」
営業も終わり、普通なら髪の一つも乱れても良いようなものだが、この人はどこにも乱れも解れもない。笑顔ですら、無駄に爽やかで眩しい。
「明日も授業ですか」
「一限からだよ。しかも和声だぁ、めんどくせぇ」
「そんな罰当たりなことを言ってはいけません。お休みしてはいけませんよ。私が沙絵ママに叱られます」
と、政さんが口にする姉貴は……もう、いないのだ。
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