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正しくは仮面ではない。
だが私たちのよく知る虫の「蛾」が顔の中心に張り付いて、羽を広げてベネチアンマスクのように目元を覆い隠しているので、「蛾面」と呼んでいる。
ちょうど四枚の羽のうち「前翅」という頭部側の二枚にある目玉のような模様が本物の瞳に重なるように、それはいた。
「おかあさん、顔に蝶々ついてるよ」
「え!? どこ?」
「お鼻のところ」
「……そんなのいないわよ。嘘つかないでちょうだい」
その蛾は、他の人には見えていないようだった。加えて私も触れることはできず、自身のは見ることもできずにいる。
それからというもの私はその蛾のことを口外しないようにしつつ、静かに観察し始めた。
「蛾面」は一人に一羽必ずいる。そして人と一緒で、同じものは一羽としていなかった。そのおかげぇ私は目元が見えなくとも、人を見分けることができた。
そして対面する人や状況によって、蛾の様子が変わるということもわかった。母の蛾は私と話すときは淡い黄色で羽は丸い形状だったが、親友と話しているときの羽は青色に変わっていた。
え? どうして「蝶」じゃなくて、「蛾」なんだって?
蝶は止まっているときは羽を閉じるけど、蛾は逆に羽を広げるという違いがあるから。これは公園にいたホームレスのタケさんから教えてもらった。
彼は私以外で唯一「蛾」を見ることができる人物だった。
私が「蛾面」と呼ぶようになったのも、タケさん──緑色でひし形の羽を持つ蛾面をつけた五〇代ぐらいの男性──が、そう呼んでいたからだ。
そして当時一〇歳だった私に、彼は蛾面について色々と教えてくれた。
「あれはな、きっと一種の『ペルソナ』なんだ」
「『ペルソナ』?」
「ラテン語で『仮面』っていう意味で、心理学では『周りに見せる自分の姿』のことを言うんだ。昔の劇で、仮面をしてことに由来しているらしいが……あの蛾も同じで、つけている人物が場や相手によって求める役柄に合わせて形状を変えるんだろう?」
「みんな、演じているって言うの?」
「そうだ。お前だって、先生や同級生の前じゃそれぞれ違う態度を取るんじゃないか?」
確かに、友達と一緒のときは悪ふざけとかするけど……先生の前だったら、そんなことできない気がする。だって、怒られるから。
「つまり同級生の前では、『友達』の仮面、先生の前では『生徒』の仮面をつけて演じているんだよ」
「お母さんも?」
「『母親』って役を頑張っているのさ……勘違いするなよ? お前への愛がないわけじゃない。愛しているからこそ、母親でいてくれるんだ」
「でも、別に演じる必要はないんじゃない?」
「いや、このクソみたいな『社会』を生きる上では何かを演じるしかない……俺はそれが嫌で、こんな生活をしてる。社会から外れたホームレスとして」
私はその言葉に首を傾げ、タケさんに言った。
「でも、タケさんの顔にも『蛾面』がいるよ」
その言葉にタケさんは驚いて固まった後に、笑った。でも今思えば、それは乾いた笑いに近かった。
「はは、なるほど……結局一人でも誰かと関われば、小さな社会が生まれるのか。自分の蛾面は見えないから、いないんだと思っていたが」
ひとしきり笑った後、彼は真剣な表情で言った。
「だんだん『蛾面』が見えることで苦労するだろう。でも、見えることで上手くいくこともある」
そう言って私の頭をぐしゃぐしゃと撫でた。
「俺みたいになるなよ」
次の日、いつものように公園に訪れると住んでいた段ボールの家ごと、タケさんはいなくなっていた。
彼とはそれ以来、会えずにいる。
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