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それから身なりも質素になった今の私を見て、元大企業の社長だと思う者はいないだろう。今の私が役を演じているとすれば、「隠居生活を満喫している老いぼれ」だろうか。
「お待たせしました」
千佳子さんが注文したモーニングを私の前に置いた。私は礼を言い、モーニングのバタートースト齧りながら考える。
──さて、これからどうしようか?
今まで仕事に全力を注いできたから、これといった趣味もない。そんな悩みを私は食後のコーヒーを飲みつつ、なんとなしに愚痴る。
すると、千佳子さんがある提案をしてきた。
「もしよかったら、葉山さん。一緒に『社交ダンス』をやりませんか?」
「社交ダンス?」
興味を持ってくれたと思ったのか、彼女は社交ダンスの魅力を語り始めた。とても好きなようで、全く知らない私でも聞いているうちに「楽しそうだな」と思わせる熱意っぷりだ。
「実は私と一緒に踊ってくれていたリーダーの方が辞めてしまって」
「『リーダー』?」
社交ダンスは二人一組のカップルで踊ることは知っている。そしてリードする男性のほうを「リーダー」と呼び、フォローするほうの女性を「パートナー」呼ぶらしい。
「それで今、踊る相手がいないんです。先生も私も教えるので……どうですか?」
それを聞いて私は、決して下心ではないが「千佳子さんとなら、また人と関わるのもいいかもしれない」と、そう思った。こうして私は「社交ダンス教室」に入った。
週二回のレッスンだが、意外にも大変だった。私は自分でも言うのは何だが今まで特に苦労することなく、そつなくこなしてきた。だからすぐ踊れるのかと思ったが……。
まず丸まった背筋を伸ばすところからスタートだった。
そして相手の動きと合わせるために基礎のステップを覚えなければいけない。社交ダンスにおいて男性は女性をリードするべき存在なのに、私が千佳子さんにリードされている状態である。
そのことを彼女に謝罪し、私はこう言った。
「リーダーをやめさせてください」
「いいんですよ! 葉山さんは初心者なんですから、すぐできなくて当たり前です!」
「けれど、足ばっかり引っ張って。私はあなたの相手として力不足で、相応しくないし──自分らしくない」
「葉山さんらしくないって……何ですか?」
「私は昔から、この社会全体が一つの『劇』のように思うんです。で、私は人間観察が得意で……演出家のように生きてきました」
そうだ。
会社勤めで「演出家」として生きていた頃の私が今の自分を見たら、「キャスティングミスだ」と言ってさっさと踊る相手を変えるだろう。
劇の流れを乱す存在として。
「私には社交ダンスの才能はありません。だから──」
「自分はそうとは思いません」
いつも、ほわほわと柔らかい雰囲気の千佳子さんが毅然とした態度で言った。彼女の目元にいる蛾面を見ると、硬質な赤い羽へ変化している。
これは自分の見せ場──強い意志を伝えたい──の時の特徴で……少し怒っている?
蛾面を観察している私をよそに、千佳子さんは語り始めた。
「私はこの社会は、『舞踏会』だと思っています」
「……舞踏会?」
「そんな格式張ったものではなくて、『ダンスフロア』でもいいですね。社会って要するに人との繋がりじゃないですか」
彼女の言葉に、
『──結局一人でも誰かと関われば、小さな社会が生まれる』
と、いう幼いころ聞いたタケさんの言葉が脳裏に蘇った。千佳子さんは続けて言う。
「私は人との関係性が、ダンスに似ているように感じるんです。ダンスには色々な種類があるでしょう?」
ひとえに社交ダンスと言っても、様々な種類のダンスがある。
大きく分けて「スタンダード」と「ラテン」の二種類だが、さらにそれぞれ五種類あり、計一〇種類もある。他にも種類があるらしいが、社交ダンスだけでこれだけあるのなら……世界には一体どれだけの種類の踊りがあるのだろう?
もしかして人の数だけあるのかもしれない。
ダンスは、私が思っている以上にとても奥深いものだった。それを私は彼女と関わって知ったのだ。
「それで関係性って誰かと関わって初めて生まれるもので、関わっていくうちに相手のことを知って形成されていく。どんな関係性──どんなダンスを踊ることになるかは、その人たち次第なんだって」
私と千佳子さんの場合は社交ダンスや対話を通してだが、関係性を形成していった──「従業員と常連客」から、「社交ダンスのカップル」へ。
他の人たちの関係性もそうだと言いたいのだろうか?
「だとしたら、私たちの今の関係性は何のダンスですか?」
私は千佳子さんに問うと、彼女はしばし考えた後にこう言った。
「……ワルツでしょうか」
「どうしてワルツ?」
「初心者向けのダンスですし、誰もが通る道で……三拍子のゆったりと、少しずつお互いに歩み寄っているところだから」
「なるほど」
「このままもっと関わって分かりあっていったら、別の関係性のダンスになるかもしれませんね」
「例えば?」
「同じ三拍子でも、速いリズムの『ヴィエニーズワルツ』になるかも」
──ならば、他の場合なら?
もし喧嘩をして今より激しく意見をぶつけ合ったら、私たちの関係性は「タンゴ」のような力強く情熱的なダンスになって。
もし、もしもだが恋人関係になったとしたら、「ルンバ」のように静と動を使い分けて男女の駆け引きを表現した踊りなるのだろうか?
そう考えると、まだ見えぬ未来にワクワクしてきたのと同時に「いいな」と思った。
私の思う社会の形である「劇」には、主役と脇役が存在する。だが千佳子さんの思う「舞踏会」には役の差別がなくて、皆が主役。
「外れ者」はいないのだ。
「あと俯瞰するのもいいですが、少し考えすぎです! 社会において演じることもあると思いますけど、葉山さんの場合は常に演じていることに集中しているようで……それって疲れませんか?」
彼女のその言葉に私は──。
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