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episode.3
「……ネリネは、そんなことしないから」
ぽつりと、口を衝いて言葉が出た。
「私の知ってるネリネは、人を襲ったりなんてしないから。それに……生贄がいるのに死人が出れば、貴方の立場が悪くなる」
驚いたように目を丸くするアベルの姿に、ネリネは小さく息を漏らした。もう隠したところで、すべて無駄なのだと悟った。
「ネリネはね、とても優しい子だった。私はあの子と話す時間が楽しくて、一緒にいる時間が……多分、好きだったのだと思う。ネリネが馬車に乗って貴方のもとに嫁ぐ日、私は気まぐれにネリネの前に姿を見せた」
思い出すのは走る馬車の中。片隅で小さい体を更に縮めて、震える少女の姿。
「ネリネは怯えていたの。冷徹な吸血鬼だと噂される、アベル・ホープレイズのもとに嫁ぐことに。町の若い娘達のように、自分も食われて死ぬのだと」
でも、そんなことはないと知っていた。
アベル・ホープレイズが例え同胞だったとしても、町の娘を食い荒らしていたのは、間違いなくアベルではなかったからだ。
「なぜネリネがそんなに怯えているのか、私には分からなかった」
そして、悲劇はおきた。
走る馬車から飛び降りる少女の姿が、今でもネリネの記憶の中に残っている。
「ネリネは死んだ。馬車から飛び降りて、自ら命を絶った。動かなくなったネリネを見て、私は……」
初めて、死がなんなのか理解した。
「動かなくなったネリネの血は、私がすべて吸い尽くした。そして……私はネリネになった。ネリネが嫁ぐはずだった男のもとに行って、知りたかった。ネリネがどんな人生を送るはずだったのか」
そこまで言ってネリネは感情のない冷たい瞳をアベルに向けた。
「貴方が私を苦しめるような男なら、その喉を噛みちぎって食い殺してやるつもりだった」
しかし、ネリネにとって想定外のことが起こった。殺意と思い違いの憎悪を抱いて顔を合わせたアベル・ホープレイズという男は、なんの害もない、ただの人間だった。
「ネリネに指一本でも触れたら殺してやろうと思っていたのに……貴方は私に触れるどころか、とても……とても、優しかった……この六年間、ずっと……」
ネリネはそこで言葉を詰まらせると、ただ黙って話を聞いていたアベルの元へ、一歩ずつ近づいた。アベルの目の前で彼を見下ろし、唇を歪める。月明りが照らすネリネの瞳は、冷徹な獣のようにぎらぎらと光っていた。
「貴方が優しい男だと最初から分かっていれば、今の私の幸せは……すべてネリネのものだったのに。私が……貴方を吸血鬼にさえしていなければ……っ」
アベルが吸血鬼だと言われていたのは、ネリネがこの一帯を住処にし、人間を食らっていたからだ。不気味な城に住む、瞳の紅い、謎だらけの男。まさに吸血鬼に相応しい。
「ネリネ……私が吸血鬼だと言われていたのは、キミのせいじゃない」
「うるさいっ……!」
発狂したような金切り声でネリネは叫ぶと、アベルの肩を掴んでそのままベッドに押し倒した。息を荒げてアベルの上に跨り、髪を乱して首を横に振る。
「どうであっても、もう遅い……っ! 貴方には、知られたくなかったのにっ……。正体を知られたら、もう、貴方を殺すしかないっ……」
怒りと、訳の分からない感情が、ネリネの心臓を鷲掴んだ。人間を餌としか見て来なかった長い年月で、こんなにもぐちゃぐちゃの感情になったのは初めてだった。
ベッドに押し倒されても相変わらず表情ひとつ変えずにネリネを見上げていたアベルが、その薄い唇に柔らかい笑みを浮かべた。
「ネリネ。私は、キミになら食べられてもいいと思っている。だから今夜、キミの部屋に来た」
「え──……?」
見えない衝撃に打たれたように黙り込むネリネを他所に、アベルの指先がネリネの頬に触れる。
「本当は、食事が足りていないんだろ? 最近は小動物の死骸ばかりが見つかる。キミが飢えに苦しんでいることには、薄々気付いていた」
ネリネの瞳が大きく揺れた。飢えた獣に気付いていながら無防備に己を晒し、甘美な言葉を紡いで誘惑してくる餌が目の前にいる。
「本気なの……アベル……?」
「こんなことで、嘘は言わない。でも、そうだな……食べる前に、キスしてくれないか。一度でいいから、キミとキスがしたい」
予想もしていなかったアベルの最期の願いに、ネリネは眉を顰めた。なんとか理解しようと彼の言葉を反芻しているうちに、頬が熱を帯びていく。
「そうね……いいわよ。まだ、夫婦だもの。キスして、終わりましょう。貴方には感謝しているから、苦しまないように、終わらせてあげる」
「それは、有難いね」
「目を……閉じてよ。私を見ないで」
「……どうぞ」
言われた通りに目を閉じたアベルの顔を、そっと覗き込む。色白の肌が、月の光で透けているように見える。アベルの髪と同じ色の長い睫毛を見つめて、ネリネはゆっくりと顔を近付けた。ずっと触れてみたかったアベルの唇に、自分の唇を重ねる。
永遠でいて儚い、純粋な少女のキス。
優しく触れるだけのキスを交わして、ネリネはアベルの首筋に唇を寄せた。彼の肌の匂いと、血の流れを感じる。少女にはあるはずのない鋭い牙を、アベルの肌へと押し付けた。
「──……ネリネ?」
込み上げた熱が、雫となってアベルの頬を打ち付けた。ぽろぽろと零れ落ちる無数の涙の意味を、ネリネはもう知っていた。
「血を吸い尽くせば……貴方も動かなくなってしまうのね……」
「ネリネ……」
「無理よ……貴方を食べるなんて……私にはできないっ……」
涙の意味に気付いていても、涙の止め方は知らなかった。
全身を震わせて静かに涙を零すネリネを見て、アベルは上体を起こした。
「ネリネ。ネリネ・ボウデニー」
顔を両手で覆っていたネリネは、その呼びかけに濡れた目を上げた。
「私の妻、ネリネ。まだ見ぬこの先の人生も、キミを幸せにすると誓うよ。ネリネが歩むはずだった人生を、私が幸福にしてみせるよ」
柔らかい響きを伴ったアベルの言葉に、ネリネの見開かれた大きな瞳を再び透明な膜が覆った。
なんて、甘美な響きだろうか。血を与えられる喜びよりも、幸福なことがあるなんて。
「私……私は……っ、もう充分幸せですよっ……アベル様」
微笑むネリネの瞼に、アベルの唇が触れる。彼の両腕にネリネの華奢な体が包まれると、温かい胸に顔を埋めた。
初めて知る、温もりだった。
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