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episode.2
血を抜かれたウサギの亡骸が、城の近くで見つかったらしい。
使用人の囁き声は、ネリネの耳にも届いていた。この城に来てから何度となく聞いたその声に、体がぞくりと震えた。この震えは、恐怖だろうか。何に対しての?
「奥様、お綺麗ですよ。旦那様もお喜びになられます」
今夜はアベルが部屋に来る。
ネリネは早めに夕食をとり、カルーナに手伝ってもらいながら念入りに準備をした。体を綺麗に磨き上げ、香油を塗り込み、プラチナブロンドの長い髪をいつもより丁寧に梳かした。鎖骨の辺りを少し露出した程よく色気のある寝間着のドレスも着ている。準備は万端だ。
カーテンを開いた窓からは月明りが入り込み、この日の夜はいつもより明るかった。
ネリネは一人ベッドに腰掛け、アベルが来るのを今か今かと待ち望む。夫婦になってから、初めて夜を共に過ごせるのだ。
アベル・ホープレイズという男は、不思議な人だった。吸血鬼だと恐れられてはいるが、ネリネは彼が誰かの血を啜ったり、十字架を恐れたり、陽の光を嫌がったりしている姿など見たことがない。
それなのに、一体どうしてアベルは吸血鬼などと言われているのだろうか。
「ネリネ、入るぞ」
その声のあとに扉が開いて寝間着姿のアベルが室内に入って来ると、ネリネはびくりと肩を弾ませた。
「アベル様……私の返事を聞いてから扉を開けてください」
「私のことを待っていたのだから、別に構わないだろう」
なんの悪気もなくそう言うアベルを見て、ネリネは不満げに唇を結ぶ。
「まだ幼い子どものようだな、キミは」
「私はもう立派な大人の女性です!」
ムキになって言葉を返せば、アベルはふっと口元を緩めた。
「それじゃあネリネ、隣に座ってもよろしいかな?」
「……どうぞ」
恥ずかしくなって身を縮めたネリネの横に、アベルが腰を下ろす。きしりと軋んだベッドの音が、静寂した室内に響いた。
触れてもいないのに隣に感じる熱に、ネリネの心臓は不自然なくらいに鼓動を速めた。このどきどきの正体を、ネリネは知らない。
「ネリネ」
「は、はい」
「キミは、私のことが恐ろしくないのか?」
突然の問い掛けにネリネは俯いていた顔をあげ、隣に座るアベルを見た。
月明かりだけが彼の顔を照らし、夜に浮かびあがるような真っ赤な瞳が、ネリネの姿を映している。
金縛りにでもあったかのように、身動きひとつせずネリネはアベルの瞳を見つめた。
──……恐ろしい。
本当は、怖くて堪らない。
でも、怖いのは……恐ろしいのは……
ネリネの揺れる瞳を気遣うように、温かいアベルの手が頬に触れた。
ゆっくりとアベルの顔が、瞳が、ネリネを捉えたまま近付いてくる。逃げることも避けることもできずに身を固くしているネリネの耳に、そっとアベルの吐息がかかった。
「ネリネ──……キミは一体、何者なんだい?」
耳に触れた熱に、ネリネは目を見開いた。
「どうして……そんなことを……」
顔を見合わせ、ネリネの唇が震える。
早鐘のように鼓動する耳障りな心臓の音は、誰の音?
ネリネの頬を包むアベルの右手が優しく動き、親指がそっと震える唇をなぞった。
「ネリネ……いや……、キミは、ネリネ・ボウデニーではないね?」
確信を込めたアベルの言葉に、ネリネは思わず飛び退いた。アベルの腰掛けるベッドから距離を取り、毛を逆立てた猫のように後退る。
「なぜ──……」
「最初から気付いていたんだ。キミがこの城に来た、六年前からずっと」
いつもと変わらない静かな口調でアベルは言うと、自分の右目を隠すように手で覆った。
「私のこの紅い瞳は、ただの瞳じゃない。人ではないモノを見極めることができてしまう、特殊な目だ」
だから、と続けたアベルは、立ち尽くすネリネへと視線を送る。
「キミが人ではない別の何かだと、私は知っている」
射抜くようなアベルの瞳に、ネリネは息を呑んだ。
気付かれていた? 最初からずっと?
完璧にネリネ・ボウデニーを演じていたはずなのに。
心臓の鼓動が、やけにうるさい。それが自分自身のものだと気付いたネリネは、ぎゅっと胸元の服を握り締めた。
「……キミが城に来た次の日、崖の下で少女の亡骸を見つけた。あの日のキミと同じ年頃の……血の抜かれた少女の亡骸だ」
目を伏せたアベルの口から出た言葉に、ネリネは突然、すっと冷静になった。うるさかった心臓の鼓動が、いつもと同じ脈を刻み始める。
「どうして……そこまで分かっていて、私を放っておいたの? 私の正体に気付いていたのでしょう?」
体の震えは、完全に止まっていた。月明りを背にベッドに腰掛けたまま動かないアベルを見つめ、ネリネは疑問を投げる。そうでなくても普段から分からないアベルという男のことが、今はもっと分からなかった。
「キミが……何もしなかったから」
「え?」
「キミが城の者を襲うようなことがあれば、すぐさま追い出すか、殺す手段を考えていた。だがキミは、この城に来てから誰一人として襲うことはなかった。それどころか、本当にただの純粋な少女として振る舞う姿が、私には不思議でしかなかった」
アベルの声にはネリネに対する敵意も恐怖も感じられない。いや、そんなものは、最初からなかった。アベルがそれらの感情をどこかで抱いていれば、ネリネは間違いなく気が付いていただろう。
ネリネの脳裏に、美しい少女の笑みが蘇る。
幼く純粋な、美しい少女の笑みだった。
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