4人が本棚に入れています
本棚に追加
⑶
職場ではおいそれと話せないので、僕らが言葉を交わすのはもっぱら工場を出た後の帰り道でだった。噂になるのを互いに避けたのかどうかはわからないが、僕らはいつも近くのバス停で何となく落ち合った。
僕のアパートと千早の下宿は電車の駅で二つほどしか離れていなかった。僕が千早を見かけたスーパーは僕の降りる駅に近く、なぜ自宅に近いスーパーに行かないのかと尋ねると千早は「私の欲しい食材が多いし、最寄り駅の雰囲気が好きだから」と照れくさそうに答えた。
僕は千早が工場勤務でよかったと思った。ここなら他の従業員の人間関係にいちいち嘴を突っ込んで来るような無粋な輩はいない。……もっとも、だからといって千早と親しくしていることをおおっぴらにしたいとは微塵も思わないけれど。
僕は千早との距離が縮まったことに舞い上がっていたが、だからといってこの先に幸せな展開が待っていると考えるほどおめでたくもなかった。
たまたま僕と接点があったと言うだけで、千早が外の世界に目を向け輝き始めたら僕はその横顔を見続けることさえ叶わなくなるにきまっているからだ。
※
僕らの関係に進展が訪れたのは千早が働き始めて一月ほど経った頃、いつものように帰り道を二人で歩いていた時だった。
「僕と一緒に歩くと、恥ずかしくならないかい」
僕はふと、かねてから気になっていたことを口にした。
「どうして?私、男の人と外を一緒に歩いたことないから、楽しい」
「でも僕みたいに不細工な奴が彼氏みたいに隣にいると、君が変な目で見られるよ」
「そんなことない。私……楽しいし」
「見る人が見ればわかるさ。友達以前の間柄だって」
「梶山さん、私と一緒に歩くの、いや?」
「君が本当の彼女だったら堂々としてるけど」
「じゃあ、そうなろうよ」
「……うん」
その日から、僕と千早の関係は彼と彼女――ぎこちないながらも「恋人同士」になった。
僕は有頂天だったが、同時にこの関係をいつまで続けられるだろうという不安も、ひっきりなしに脳裏をかすめた。
※
口数の少ない若者と年配者たちで静かに動いていた工場に不穏な風が吹きこんできたのは、僕が千早と付きあい始めて半月ほど経った時だった。
キッチンでチーフ的なポジションにいた舘岡という従業員が、何か不祥事紛いのことをしたらしくしばらくの間工場でライン仕事をすることになったのだ。
本来なら解雇のところを異動で済んだという事実は、舘岡が手心を加えてくれるような後ろ盾を持っていることを暗に示していた。
ライン業務に入ってしばらくの間、舘岡は口をへの字に曲げて苛立ったような表情を見せていた。それはそうだろう、今まで見下していた同僚たちと同じ待遇で働くのだから。
舘岡は同じキッチンクルーの、不良上がりのような取り巻きたちと店の外でもつるんでいた。フロアスタッフに可愛い女の子が入ると、館岡はいつもコージ、トオル、タクという三人の腰ぎんちゃくと共に連絡先をしつこく聞くという事を繰り返した。
僕は頼むから工場で女の子の物色をするのだけは止めてくれと、心の中で祈った。
だが、僕の懸念はほどなく最悪の形で現実となったのだった。
いつも千早の隣で昼食を摂っている年配の女性従業員がある日、彼女に「なんだか最近、楽しそうね。彼氏でもできた?」と問いかけたのだ。
数少ない女性職員に関する話題、舘岡はそれに即座に反応した。
――なんだ、よく見たら工場にも案外、悪くない女がいるじゃないか。
舘岡が内心、ほくそ笑んだことは想像に難くない。その日から僕の警戒心は最大レベルにまで引き上げられることとなった。
最初のコメントを投稿しよう!