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僕が忍び寄る不吉な気配を肌で感じたのは、午後三時の小休憩時に工場の片隅で舘岡が千早に言い寄っているのを見た時だった。
「なああんた、こんな辛気臭い工場で働いてて退屈じゃないのか?」
「別に……たくさん人がいるような環境は、あまり得意じゃないんです」
「ふうん、そうかい。……で、つき合ってるやつとかは、いるの?」
舘岡のぶしつけな質問に、千早は即座に首を振った。
「そうだよな、ここの奴らをぱっと見ただけでも、女に構って貰えそうな奴なんて一人もいないもんなあ」
舘岡は僕らをひと渡り見回すと、あからさまに軽蔑したような表情をこしらえた。
「長話をしてると仕事に遅れるから、そろそろ戻ります」
「まあそう邪険にすんなよ。……なあ、俺と付きあわないか?」
「……ごめんなさい、遠慮します」
「なんだよ、あんただって彼氏が欲しいだろ?それとも誰かともう突き合ってんのか?誰だ?相手は。キッチンの誰かか?だったら俺に乗り換えろよ。いい思いをさせてやるぞ」
「……お断りします」
僕ははらはらしながらも千早がぴしゃりと断ったことに内心、ほっとしていた。不安が消えたわけではないが、舘岡の品のなさに千早が不快な表情を見せたことはせめてもの救いだった。
※
「……ねえ梶山君、映画に行かない?」
千早が唐突にそんな誘いをかけてきたのは、金曜の仕事を終えてバスを待っていた時だった。
「映画?……いいけど。観たいものがあるの?」
素っ気なく返しながらも、僕は内心どきどきしていた。僕らにとってはバスの中と、降りてから電車の駅までを歩く数百メートルが「デート」と言ってもよかったからだ。
「うん、地味なお話なんだけど……好きな役者さんが出てるの」
千早の口から出た俳優の名は、演技派で知られる中堅俳優の物だった。
「あ、その人なら僕も好きだな。いいよ、行こう」
僕らはその場で週末に行くことを決め、しばし映画の話で盛り上がった。
土曜の夕方、僕が映画館のロビーに到着すると、ベレー帽に可愛らしいボレロという工場の行き帰りよりちょっぴり可愛らしさの増した千早が姿を見せた。
「梶山君、こっちこっち。……良かった、時間間違えちゃったかと思った」
「ごめん、ぎりぎりで。大して着る物もないのに、君が一緒にいて恥ずかしくない服装をって思ったら考えちゃって」
「そんなことで悩むくらいなら、すぐ家を出ちゃえばよかったのに。その方がたくさん一緒にいられると思わない?」
ああそうか、と僕は思った。今思えば、僕は臆病すぎて千早の気持ちと向き合っていなかったのかもしれない。
せっかくいい席をネットで予約したのに、緊張気味だったこともあって映画の内容はまるで頭に入ってこなかった。
この時、僕は一生の不覚とも言える失敗を犯していた。僕にもう少し余裕があれば出口辺りでうろついていた観客の中にあいつがいることに気づけたはずだ。
※
「お前さあ、自分の身分ってもんをわかってないんじゃないのか?」
映画の翌々日、舘岡は食後の休憩を取っていた僕を工場の裏に呼び出してそう言った。
「何の話です?」
「お前ごときが一人前にとぼけるなよ。光元と映画を観に行ったろう?隣同士の席でさ」
舘岡は眉を寄せ不快そうな表情をこしらえると、僕にねちっこく絡み始めた。
「なあ、何か間違ってるとは思わないか?俺が振られてる横でさあ、工場でも一番不細工な奴が女の子といちゃついてるなんてよお」
そんなの知ったことかと言いたかったか、僕はその言葉をぐっと飲み下した。
こいつの悪評は知れ渡っている。下手に刺激すれば何をされるかわかったものじゃない。
「いちゃついてなんかいないよ。映画くらい別にいいじゃないか」
「……いつまでもそういう態度でいられると思うなよ」
勤務中だったせいか舘岡は僕の胸を小突いたものの、それ以上の暴力に及ぶことはなかった。
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