11 攻め込まられた国境

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11 攻め込まられた国境

 騎士団の執務室では、深く長い溜息が何度も聞こえてきていた。  事務仕事をしていた騎士達は、自分の出張経費の提出書類や備品の申請書類を手早く片付けると、足早に部屋を出ていく。一人の騎士が腕に抱えていた書類をバサバサと落とした途端、奥の副団長の机辺りから射殺されそうな視線を感じて完全に固まってしまっていた。 「どうぞ」  部屋に入ってきたベルトラン家執事のルドルフは、床に散らばっていた書類を拾うと、固まっていた騎士の手の上に置いた。 「あ、ありがとうございますッ! 失礼します!」  走るようにいなくなる騎士の背中を眺めながら、部屋の奥で不機嫌を垂れ流している主を見た。 「そんな殺気を執務室で出すものではありませんね。ここは戦場ですか?」 「……今は嫌味を聞く気分じゃない。あっちへ行け」  しかしルドルフはツカツカと近づいてくると、アルベルトの前に立った。 「それでどうでした?」 「何がだ」 「初夜ですよ。万事うまく行きましたか?」  すると、部屋の中には一層冷たい空気が漂った。談笑しながら部屋に入ろうとした騎士達は、部屋の空気に足を止めると、静かに扉を閉めた。 「この部屋を占領するおつもりですか? 彼らだって仕事があってここに立ち寄っているのですよ」 「別に入室を止めた覚えはないぞ」 「いいえしております。そのご様子だと、さては失敗に終わりましたね?」  じろりと見られてもルドルフは気にする様子など微塵も見せずに溜息をついた。 「ですから私が準備しました潤滑油をと……」 「向こうがすでに準備していた」 「はい?」 「だから! 向こうがもう仕込んでいたと言っているんだ!」 「それは、その、お身体に?」 「それ以外にあると思うか? しかも媚薬入りだそうだ」  するとルドルフは意外そうに唸った。 「それは少々意外ですね。その辺りは疎いと侍女長から報告を受けておりましたので」 「媚薬と潤滑油を塗って準備されていては、正直萎えた」 「それでは……」  少し俯き、気まずそうにアルベルトは首を振った。 「それは一安心です。正直失敗するよりはこれで良かったではありませんか。それに夫婦の営みは一回だけではないのです。これから何度も身体を重ねていけば、潤滑油など不要だと奥様も気づかれますよ」 「不必要に抱く気はない。まずは昨晩の行為が身を結んでいないか様子を見る事にする」 「まさかそれまではシないと仰るので?」  頷くアルベルトを不憫そうに見つめてから、バンと机に両手を置いた。 「宜しいですか? いくら貴方様がそのような立派なお身体でも、さすがにたった一回で子が成せる程都合よくは出来ていないのですよ! 今晩もお帰りになりよくよくお励みください!」 「しかし連日では身体が辛いだろ?」 「いいえ、辛いのはむしろ初夜の一度だけです。しばらく政務は程々にして屋敷へお帰りくださいませ」  背もたれに倒れながら、アルベルトは目を瞑った。 「カトリーヌ様はお綺麗でしたでしょう? あの美しい女性に愛されたいとは思われませんでしたか?」 「はッ、笑わせるな。あれはモンフォール家の女だぞ。かつては莫大な財産があったようだが、今は没落寸前の家なんだ。金の為なら誰にだって股を開くのさ」  さすがに今のは言い過ぎだと思ったのか、アルベルトは気まずそうに視線を下げた。 「相変わらずですね。カトリーヌ様自身にご興味は持たれなかったのですか?」 「……よく見てもいない」 「はいッ!?」  ルドルフは残念な生き物でも見るようにアルベルトを見つめた。 「私が拝見した限りでしか申し上げられませんが、カトリーヌ様はアルベルト様が思われているような女性ではないと思います。ご実家の現状に向き合い、ご自身で出来る事をされておられますし、交友関係も激しくありません。デビュタントの時に第二王子を誘われたのは本当にお相手が誰だったかご存知なかったようでした」 「だからどうした? 別に悪い女だとは思っていないさ。でもモンフォール家に生まれたというだけで、もう俺とは縁がなかったんだ」 「……分かりました、このわからず屋」 「なんだと!?」 「もう昼食は取られましたか? 少し遅くなってしまいましたが食堂が空いていて丁度いいかもしれません。こちらに何か運んで参りましょうか?」 「……いやいい。午前からずっと座っていたから散歩がてら俺も行こう」  アルベルトに従いながら執務室を出ると、廊下の曲がり角からずっと様子を伺っていた騎士達が執務室の中に入っていくのが見えた。  食堂へ向かう途中、ルドルフは見慣れた姿に足を止めた。 「どうかしたのか?」  つられてアルベルトも足を止める。廊下の先には、美しい夫人がゆっくりと歩いてきた所だった。アルベルト達を見つけると、微笑んで真っ直ぐに向かって来る。その姿はとても子供二人を産んでいるとは思えない程の美貌だった。 「モンフォール夫人、珍しいですね。伯爵にお会いに来られたのですか?」  ルドルフが声を掛けると、モンフォール夫人はちらりとアルベルトを見上げた。 「いいえ、本日はアルベルト様に会いに参りましたの」 「私にですか?」  不機嫌を隠そうともしない声色にも臆せず、モンフォール夫人は真っ直ぐに向き合った。 「結婚式の翌日、朝にはもうご出勤とはあまりに娘が可哀想だと一言申し上げたくて参りました」 「しかし仕事が……」 「いいえ! 今一番の仕事はお世継ぎではないでしょうか? 失礼ながらアルベルト様にご兄弟はおられず、お仕事も騎士団でいらっしゃいます。戦争があればいつ駆り出されてもおかしくはないお立場。一日も早くお世継ぎをと望まれているのは、何も我が家だけではないはずですわ」  捲し立てられるように言われアルベルトが拍子抜けしていると、ルドルフはモンフォール夫人を諌めるように前に出た。 「差し出がましいようですが、アルベルト様にもしっかりとお考えがございます。侯爵家の跡取りと、騎士団の仕事を両立させようとしておられるのです」 「そうですわね。私ったらつい娘の為にと焦ってしまってごめんなさい」  扇で隠された表情は分からない。それでもその眉はぴくりとも動いてはいなかった。後ろで気配を隠している侍女は困ったように辺りをちらりと視線を送っていた。何事かと集まり出した城の者達の視線を感じながら、アルベルトは夫人に軽く頭を下げた。 「義母上にはご心配をお掛けして申し訳ない。だがそう夫婦間に口を挟まれなくても上手くやっているのでご心配なく。それでは急ぎますので失礼」 「……それでは昨晩はうまくいったのね」  ぽつりと溢れた声には気づかないようにして足早にその場を離れた。 「やはり昨晩の事を聞こうとされていたのですね」 「直接娘に聞けばいいじゃないか」 「カトリーヌ様はベルトラン家の屋敷にいらっしゃるのですから、おいそれとは行けませんよ。それなら城をウロウロしてアルベルト様を待ち伏せした方がよほど確率が高いですからね」 「それでは俺が暇を持て余しているみたいじゃないか」 「おや、そう聞こたのなら申し訳ございません。でも今日の午前中の仕事が捗ったとは思えませんでしたので」  アルベルトは苦い顔をしながら食堂へと入っていった。  その知らせがもたらされたのは、アルベルトが訓練で汗を流し終わり、帰宅しようと上着を掴んだ時だった。勢いよく騎士団宿舎にあるアルベルトの部屋の扉が開けられる。駆け込んできた部下の騎士は肩で息をしながら途切れ途切れに言った。 「国境が、グロースアーマイゼ国との……国境にある、ベルガーの町が陥落しましたッ!」 「侵攻してきたのか!」 「報告をしてきた兵士はベルガー辺境伯の家の者でしたので間違いありません!」 「その者は今どこに?」 「謁見の間です。アルベルト様にも陛下の招集がかかっておりますのでお早くッ」  言葉を聞き終える前にアルベルトは走っていた。  謁見の間にはすでに国王、宰相、軍部の各指揮官、それに普段は軍事と関わりのない第一王子ジークフリートの姿もあった。文官の姿が一人も見えない所を見ると、招集されたのは軍部に仕分けられた者達だけのようだった。 「あと一人か」  国王が苛立ったように扉に視線を向けた時、大あくびをしながら入ってきたのは、第二王子のフィリップ・ヴンサン・ジュブワだった。長い金髪を後ろで結び、乱れたシャツに上着を羽織った姿は、この場には異質のように見える。垂れ目を片方だけ開き、眠そうにしながら扉の近くにあった椅子を引いてどかりと座った。 「フィリップ、どこで何をしていた! お前が最後だぞ」  地を這うような声にアルベルトは内心ぞっとした。フィリップが後少し早ければ、その最後は自分だったのだ。ちらりとフィリップを見たが目が合ってすぐに逸らした。 「私にも色々とヤる事がある訳ですよ。長期の視察から帰ったばかりですしねぇ」  場の空気にそぐわない間延びした声に、苛立ちを込めた視線をフィリップに送った国王は、仕切り直すように咳払いをすると、集まった者達をぐるりと見た。 「ベルガー辺境伯からの使いによると、陥落したのは国境付近の小さな町だそうだ。あそこはもともとグロースアーマイゼ国が自らの土地だと主張する場所でもあったから起こるべくして起こったと言えなくもないが、我が国としては当然許せるものではない。奪還に向けて我々も兵を出す事とする」 「ベルガー家の私兵だけで制圧出来ませんか? その為の多額の軍事予算を割いているではありませんか」  発言したのは兵団の団長だった。こういう時にまず一番に駆り出されるのは兵団と決まっている。だからだろうか、一瞬騎士団の方に向けて冷たい視線が刺さった気がした。 「ベルガー家も十分な兵力はあるが、万が一抑えられなかった場合、その侵攻は次の場所に移るだろう。被害を最小にする為にも、王都からの援軍はすぐに来るのだという事を見せつける必要があるのだ」 「ですがそれではベルガー家の立場がなくなるのでは? それくらいなら向こうで収めてもらわないと困ります」  陛下に対し物怖じしない無礼な言い方に、アルベルトは兵団団長をじっと見つめた。  年の頃は四十手前。しかしがっちりとした体躯に蓄えた髭がそれ以上の年齢に見せている。 「オレリアン兵団長の言う通りだが、災いの芽は早めに摘み取らねばなるまい。異論ないな?」  国王に名前を呼ばれて諌められた兵団長は、腕組をしながら集まった者達を見渡した。 「それでしたらやはり我々兵団が向かうのですね?」 「今回はフィリップ、お前が指揮を取れ」  一瞬、部屋の空気がしんと静まった。名前を呼ばれた当のフィリップは、小さく笑うと背中を付けていた座面から起き上がった。 「いいですよ。グロースアーマイゼから我が領土を取り返してくれば宜しいのでしょう?」 「そんな簡単におっしゃいますが……」  勢いよく立ち上がろうとしたオレリアンは国王の視線に制されて腰を落とした。 「ジークフリート兄上もそれで宜しいですか?」 「構わないさ。我が領土を奪還してきてくれ」 「承知致しました。しっかりと手柄を立てて来ますよ」  ジークフリートの眉がぴくりと動く。しかしそれ以上は何も口にはしなかった。 「しかし現在のベルガー家の状況が分からない以上、私の騎士達だけでは足りないかもしれませんがどうします?」 「それも考えている。アルベルトよ、行けるか?」 「はい」 「それでは第二王子フィリップの旗を掲げ、国境の町を奪還しに向かえ!」 「隊長! クラウス隊長!」  アルベルトは騎士団団長のクラウスの後を追った。  クラウスは幼い頃から騎士団で同じ釜の飯を食った仲間だった。五つ年上なだけだが、その優秀さを取り立てられて騎士団団長にまで上り詰めた男。見た目は温和で文官が向いているようにも見えるが、その剣の腕前と馬術、戦略、そのどれをとってもクラウスの右に出る者はいないだろう。だからこそ、今回の遠征にクラウスが選ばれなかった事が気がかりだった。 「ほらほら、早く準備を進めないと出立に間に合わないぞ? 君の隊にもすぐに招集をかけないと」  話し方まで柔和で、つい騎士団団長だと言う事を忘れてしまいそうになる程だった。 「すぐに準備致します。しかし、本当に俺でいいのでしょうか?」 「陛下がお決めになった事だよ。しっかりやっておいで」 「しかしあのフィリップ殿下と一緒では少々やりづらい気もします。行くなら我が隊にだけで行った方がよいのではないでしょうか?」 「アルベルトはフィリップ殿下が苦手なのか?」 「苦手というよりは、あの軽薄さが信用に掛けると言いますか……」 「ははっ、軽薄さね。確かにッ」  笑われた事に納得がいかずにいると、クラウスはごめんごめんと言いながらアルベルトのしっかりした腕を叩いてきた。 「大丈夫だよ。アルベルトはお側で勉強させてもらうといいよ」 「勉強、ですか? お言葉ですがフィリップ殿下から?」  真面目な第一王子のジークフリートと違って、フィリップは真逆をいく派手は人柄だった。二十三にもなるというのに結婚はおろか婚約者も持たず、常に国中を歩き回っている。視察や遠征と言えば聞こえは良いが、要は国費で決まった騎士達と外遊しているとしか思えなかった。それは見た目のせいもあるかもしれない。王族の派手な容姿にあの服装や話し方が加わればどうしたって遊んでいるように見えてしまう。しかし今のクラウスの口振りからすぐにそれ以外の何かがあるように感じられた。 「酷い言われようだなぁ。もしかして私は城の皆にそこまで嫌われているのかい? それともアル君にだけ?」  とっさに振り返ると、壁に背中を預けてこちらを見ているフィリップの姿が目に入った。 「フィリップ殿下、いらっしゃったのですか」  妙な呼ばれ方を気にしつつも聞き返す気にはなれず、変に慌てても仕方ないという気持ちと、本当の事なのだから聞かれても困らないという思いでいると、フィリップは小さく笑いながら肩を竦めた。 「どうやら本当に嫌われているようだね。君の部下には」 「さあどうでしょうか。ご自身の責任もあるとは思いますよ」  どこか仲の良さを伺わせる二人の応酬を見ていると、フィリップはアルベルトの背中を叩きながら通り過ぎて行った。 「グロースアーマイゼとの戦いはまだまだ先なんだから、今から力を入れているとへばっちゃうよ」 通り過ぎていくその背を苛立ちのまま見つめていると、クラウスは小さく溜息を吐いた。 「向かう場所が戦地になる以上、怪我をしないようにとは言えないけれど、くれぐれも最善を尽くすように。そして無事に帰還してくれ」 「行って参ります!」  準備は最速に行われ、出立の時刻は迫っていた。フィリップ殿下の紋章である狐のマークが描かれた旗が風にはためいている。王都の人々に感づかれぬよう出立は真夜中、準備が出来た第二王子の部隊から王都を出て北へと向かって行った。 「奥様? まだ起きていらっしゃったのですか?」  応接間でエルザの入れてくれたハーブティーを飲んでいたカトリーヌは、肩に掛けていたショールを引き寄せると、明け方に帰ってきたルドルフの後ろを見た。しかしルドルフ一人だと分かると、あからさまにホッとしてしまう自分がいた。 「旦那様はお戻りにはなられません」 「お忙しいのね。私も今日はもう休むわ」 「奥様、実は……」立ち上がろうとしたカトリーヌは呼び止められて再び椅子に座った。 「旦那様なのですが少々込み入った事情がございまして、先程フィリップ殿下と共に遠征に出られました。ですので、しばらくはお戻りになりません」 「何かあったの? まさか大きな災害とかではないでしょうね?」 「現時点で詳細はお答えしかねます。旦那様からのご連絡をお待ち下さいませ」  その時、お茶の片付けをしていたエルザがツカツカとルドルフの前にやってきた。 「お話中に失礼致します。ルドルフ様、奥様に隠し事されるのはお止め下さいませ。奥様はずっと眠らずに旦那様をお帰りを待っておらました。それなのに遠征の理由も、いつお戻りになるかも教えて貰えないなんてあんまりです!」 「エルザいいから止めて。ごめんなさいルドルフさん。エルザも遅くまでありがとう。もういいから休みましょう」 「確かにエルザの言う事も一理あります。しかしこれは陛下のご命令なのです。私に言える事はここまでですがお許し頂けますか?」 「陛下からのご指示だなんて、アルベルト様は陛下からのご信頼が厚い御方なのね」 「そう言って頂けるとベルトラン家に忠誠を誓った者としては大変嬉しく思います。ご理解を示してくださりありがとうございます」 ルドルフは頭を下げると、カトリーヌはすぐに顔を上げるよう言った。 「出来ればアルベルト様にお手紙を書きたいのだけれどいいかしら」 「もちろんです。ただすぐにはお出し出来ないと思いますので、もう少しお待ち頂けますか?」 「それでは可能になったら教えて頂戴ね」  ルドルフは、そう微笑むカトリーヌを好ましく思いながら出ていく姿に頭を下げた。
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