Angel's Trap

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ふわりと柔らかい香りが鼻をくすぐる。 白い光が、まぶたを通して感じられる。 ゆっくりと眼を開くと、四方には黒い光沢を放つ柱があり、金糸の細かい刺繍が縫いとられた深紅の布が掛けられている。 いま一度、しっかりと眼を開き、体を起こした樹は、自分が古風な天蓋つきベッドに寝ているのに気づいた。 起き上がり、あらためて周りを見まわす。貴族が住む欧風の屋敷のような部屋。 ここはどこだ……? 遠坂樹(いつき)はこめかみに手を当て、考え込む。そして茫然とした。この部屋に来るまでの記憶が全くなかった。 身体にかけられているのは、柔らかい羽根布団。そして自分が服を着ていないことに気づく。 こうなった状況を思い出せず、焦りを覚えた。更に身の危険がないかどうか、あたりの様子をうかがう。 椅子の上にあったガウンが目についた。光沢のあるグレーの生地はサテンだろう。何やら派手だなと一瞬思ったが、それを着なければ歩き回ることもできない。 誰かが見つめているような気がする。 注意を払いながらベッドから起き上がり、歩き出した。 その椅子の後ろには、絡み合う植物の凝った彫刻が施された大きな鏡がある。 ガウンを手に取った後、鏡面に映し出された自分の全身を確かめる。思い出したのは、何か大きな怪物と格闘して大怪我をしたことだ。オカルト現象専門の探偵だから、小さな怪我などは日常茶飯事だ。 唐突に様々なことが脳裏を駆けめぐる。 弟の玲が『魔族』の血を飲み続け、その件で樹と諍いになり、決別してしまったこと。  魔族――ある時、異界から現れるようになった魔物たち。世界各地の伝説の生き物と思われていた存在が日常の中に忍び込んできている。その原因を作ったのが自分だということを否定できない。弟を救うために開いたパンドラの箱……。 ひどい疲労感が押し寄せてくる。我知らず、ため息をついた。同時に一人の姿が心に浮かぶ。 「樹……」 少しハスキーな低めの声。その持ち主の方を向くと、案の定、黒髪の二十代半ばほどの男が立っている。今思い浮かべていた人物だ。 「オリフィ、俺はどうしたんだ? 何だってここに? 玲と大喧嘩したところまでは覚えてるんだが」  一気にいろいろな疑問が湧いてくる。 「かなりの怪我をしていた。だからここで治癒するまで、君をこの部屋に休ませ樹いた」 「そうか……だったら、もう治ったようだぜ。俺の身体、傷なんてどこにも残ってないようだしな。天使パワーで治したってわけか?」 樹はおどけたように手を広げる。「天使」などと言っても翼があるわけではない。だが、異界からの来訪者は、自分たちを天使と名乗っている。実際、人間にはない能力、心を読めたり、瞬間移動をしたりする。運動能力もかなり優れていた。オリフィもその能力を持っているが、どうやら天使の中では優秀というわけではないらしい。 だが、この天使や魔族がどんな生き物なのか解明できていない。世界にはこの生き物を解明しようとする人間たちもいるらしい、と噂には聞いているが。 何か言わなければならないことがある、という考えが唐突に浮かんできた。 「君の身体の方は治した。だが……」 樹に近寄り、真正面から見つめてくる。 「心がまだだ。君の中の声が聞こえる」  心の中を勝手に覗かれるようで抵抗がある。そのつもりはないのだろうが。 オリフィは理論的な事柄については巧みに話すが、日常会話には慣れていない。堅苦しく、そして言葉足らずだ。生き物というより、アンドロイドか何かと話しているようだ。 だが、そのシンプルさゆえに本質をついている。 「私は、人間の感情というものを熟知しているわけではない。だが君の心は嘆いている、血を流している。その血をどうしたら止められるのか。私にはわからない」 見透かされている。 相手が人間なら、心の内を隠せないことを、もっとうっとうしく感じただろう。だが、オリフィは憐れむような表情をするわけでもなく、ただ静かに見つめるだけだ。 確かに樹は疲れていた……何もかもに。天使と魔族の戦い(手垢のついた三流ドラマみたいな設定だが本当だ)にうんざりしていた。この世界に連中が入り込んできたのは、はるか古代らしいのだが、自分の過去に結びついていなければ、放っ樹いただろう。 ただ穏やかに暮らしたいだけだ。 けれど、玲が自分を捨てるように去ってしまったことに、胸が引き裂かれるような思いが広がる。両親を亡くしたため、子どもの頃から弟のことを第一に考え、長じては、玲と道を歩んできた。そして玲は兄弟としてだけではなく、半ば自分が保護者だと思っていた。だが彼はもういない。 「俺の心を治す方法……か。何だろうな?」 「君の望みのままに」 その言葉に、樹は心をつかれた。 「だったら、今から試してみるか?」 樹はオリフィの手首をつかみ、ガウンの上から痣のあるあたりにその手を押し当てた。ふいに心の奥から熱く何かが突き上げてくる。 そのままオリフィを引き寄せ、髪に手を差し入れた。それだけで、自分の頬が熱くなる。 見開かれた眼の透き通るような碧。それを感じながら、樹はオリフィの髪を撫で、口づけた。 唇を離すと天使は眼を見開いたままだ。樹は困惑する。 「眼を閉じろよ。こっちが恥ずかしくなるだろ」 「これが君の心を治すのか?」 不思議そうに首をかしげる天使に、一瞬苦笑を浮かべる。 「そうさ。俺の言うとおりにしてくれたらな」 何かを感じ取ったようにオリフィは樹を見上げる。 「君の望むままに」 やや、かすれ気味の声で答え、眼を閉じたオリフィにもう一度口づけ、その唇を味わった。想像していたより柔らかい。 もう、何がどうでもいい。 だけど俺を癒したいと思っているオリフィの想いだけは真実だ。 天使は人間とは異なる思考形態ゆえに、様々なしがらみから解き放たれている。そんな彼の申し出は純粋だ。 そう信じて、あるいは信じたくオリフィのネクタイをゆるめた……。   全てが終わり、心地よい疲労感を感じながら、天使の身体を抱き寄せた。 オリフィは、眼を開き、樹に尋ねる。 「君の心を治せたか?」 抑揚のない声音と、樹をまっすぐに見つめてくる様子に、今までの余韻もすっかりぬぐいさられたような気分になる。 どうやら、ことの後のどこか甘さを含んだ会話は期待できないようだ。苦笑気味に樹は答えた。 「そうだな。うん、だいぶ」 天使の髪の毛をいじりながら、樹は考えていた。 自分の身にふりかかった様々な出来事を思い起こしながら、不思議と心が軽くなっているのを感じた。 樹はベッドから抜け出してガウンを羽織り、部屋を見まわす。 「シャワーを浴びたいんだが、どこにあるんだろうな」 「君の前の扉の奥にある」 起きあがったオリフィが眼で示した。 その言葉どおり、扉を開けるとそこに猫足のついた大きな白いバスタブがあった。すでに湯が張られている。 頭の奥で何かが引っ掛かる。 だが、白い泡に身体を浸した瞬間に、その感覚は消え去り、隅々の細胞が一気にほぐれていった。何もかもが嘘のように心の平安を感じる。 ここ数年、不可解な現象を追い続けていた。それはひと時も心休むことのない日々だった。 そんな事柄が、今はまるで夢のようだ。 浴室から戻った樹は、急に喉の渇きを感じた。 ベッドサイドテーブルに置かれたワインクーラーとグラスが眼に入る。 至れり尽くせりだな。 樹はそう思いながら、冷やされた白ワインのボトルを手に取った。ビールがないのが多少残念だが、喉を潤すなら、この際、何でもよかった。 グラスに注いだ金色の透明な液体は細かな泡を含み、輝きを放つ。口に含めば、甘さと酸味が、芳香とともに口の中に広がる。ラベルにはシャンパンという表記がある。いつもはビールとバーボン・ウィスキーしか飲まなかったが、樹にとっても意外なことにその味が気に入り、更に杯を重ねた。 「それは何だ?」 いつの間にか、そばにいたオリフィは興味深そうに樹の手元を見つめている。 「これはシャンパンってやつだ。葡萄からできている酒だよ。俺はほとんど飲まないシロモノだがな。気取った奴らが飲むもんさ。大体、バカ高いしな……ええっと、飲んでみるか?」 シャンパンの説明をしかけたが、あまり知識がないので面倒になり、オリフィの前にグラスを差し出した。 「飲んでみろよ」 オリフィは受け取ったグラスを一気に飲む。 「どうだ?」 からかうように見守った。 「わからない。だが、いい香りだ。葡萄から作られる……シャンパンというのだな?」 「もっとゆっくり飲んだほうがいいぜ。酔っ払ってフラフラになっちまうぞ。酒なんか飲んだことないだろ?」 今度はゆっくりと飲む。グラスを傾けたオリフィの白いのどに眼が吸い寄せられた。 樹は近寄り、シャンパンを飲んでいた彼の首筋に軽くキスをする。 「樹……」 「ん?」 「身体が熱い」 「貸せよ」 オリフィの手から空のグラスを取り、テーブルに置く。 樹はボトルをつかみ、そのまま飲んだ。 天使の腰を抱き寄せ、シャンパンを口移しで注ぎ入れる。 酒に酔ったのか、樹の愛撫に酔っているのか――天使は眼を閉じ、わずかに唇を開いている。 そばにある、あの大きな鏡に自分たちの姿が映っている。 次に快感が波のように押し寄せる。 ちらりと鏡を見やると、一瞬映し出された光景が揺らいだように思えた。 気のせいだろうか? 「樹、治ったか?」 彼はオリフィのほうに向き直る。 天使の顔からは先ほどの陶酔がすっかりかき消えていた。 「まだ目覚めていないのか?」 「何のことだ?」 オリフィの問いの意味がわからず、天使を見つめる。 気づけば何やらピシピシと音がする。 とっさにその方向を見れば、鏡の中に赤く模様が浮かび上がる。それは天使を撃退するあの魔方陣だった。 見る見るうちに、鏡全体に細かくひびが走り、そこから白い光があふれ出す。 まばゆい光で眼を開けていられないほどだ。一瞬、その中からトレンチコートの天使が現れたような気がした。 腕で眼をかばった瞬間、頭の中を切り裂くような轟音が響き、空間が白く染まった。 「樹」 肩に手が触れ、はっとする。 まぶたを開くと、オリフィがいつものように無表情にたたずんでいる。 あたりを見まわせば、そこは古い石造りの部屋。 身体を動かしたとたんに軋んだ音がする。なかば朽ちたベッドに寝ているのに気づく。 「何だ? どうした?」 全く状況がわからず、樹は焦りを覚えた。 オリフィが顔を近づけ、彼を見る。 「無事に戻ったようだな」 「俺は一体?」 「君はタブリスの罠に捕らわれていたのだ」 「タブリスの?」  タブリスはオリフィが所属していた異界の天使長の一人だ。異界ではタブリスの命令を受け、オリフィは行動していた。ある時、樹に出会い、天使たちの在り方そのものに疑問を持ってしまったのだ。  あれから、一年近く経つ。 ふとオリフィを見ると黒いコートの袖が濡れている。滴っているのは鮮紅色。血だ。 「おい、怪我してるのか!?」 「これなら大丈夫だ。もう血は止まっている」 腕を上げ、オリフィは答えた。 「あの鏡の魔法陣。おまえの血なんだな?」 「ああ。実のところ、君を見つけ出すのが難しかった。単に天使の造り出した空間であれば、もっと早くにたどり着けただろう」  つい最近、タブリスによって異空間に閉じ込められたことを思い出す。天使が作り出した、と言ってもコンピューターで作り出した仮想現実のようなものらしい。 「天使のセンサーで見つければ、一発でわかるってわけか」  天使センサーなどと、冗談で言っているが、要するに人間とは違う種族の能力らしい。 「そうだ。だから、以前に君を閉じ込めた空間では意味がないとタブリスは考えたのだろう。私が予想しない場所に捕らえて待つつもりだった、世界の終りの時まで」 「その場所って?」 「この鏡の中だ」 オリフィの足元に大きな鏡の破片が一面に散らばっている。凝った彫刻がほどこされた木の枠は、あの部屋で見たものと同じもののようだ。 「鏡か。それだと天使レーダーは効かないのか?」 「人間の使う古い事物というのは、得てして持ち主の想いが沁みついている。人間の感情は私たち天使には依然として未知の領域だ。だから、君の言うレーダーが働かない」 「俺は眠り姫だったってわけか」 「そうだ。鏡が作り出した空間の」 樹は冗談を飛ばしたつもりだったが、オリフィは意味がわからないらしく、それには反応せずに答えた。 「その上、外からの侵入者にはあの部屋全体が罠になる。この鏡は新たな持ち主を欲しがっていた。君が選ばれたわけだ。だが持ち主を連れ出そうとすれば、あの鏡は侵入者に害をなす。それは天使と言えど致命的だ」 「罠ってどんな感じの?」 「鏡というのは時には魔力を持つ。そこに映し出した存在の内面もとらえてしまう。対象物の弱点も鏡の前にはさらけ出されるだろう。おそらく天使の弱点も。タブリスの巧妙な罠だ」 鏡の魔力については樹も過去の事件で経験したことがあった。 「一方、この鏡は自分の主に心地よい空間を提供しようとする。鏡自身の過去の記憶から作り出すものだ」 捕らわれていたところ……あの部屋か。あれは鏡の記憶なのか。 「樹の行方を突き止めた時点では、すぐに侵入することはできなかった。それに君に真実を話すこともできない。そのとたんに鏡が脅威となり、私に襲いかかるだろう。昔、人間の事物を使った天使の罠の話を聞いたことがある」  鏡が作り出す牢獄。 オリフィが来なければ、永遠にあの甘い罠に閉じ込められてしまったのだろうか。様々な悩みに苛まれていた樹には、それも魅力的に思えてしまう――何もかもから逃げ出せたら。  そんな感情がよぎったが、オリフィは話し続けた。 「思案の末、私は鏡と意識の一部を同化して、君に心地よい空間を提供し、侵入者であることを気づかれないようにしていた。君の心は傷つき、閉ざされていた。そのために意識が目覚めない。だが、連れ出す時に、心を閉じたままでは、精神に危険が伴う」 オリフィはそこまで話して窓辺へ歩み寄る。今夜は月が輝いている。 外を見つめながら天使は振り向く。 「タイミングをはかっていたのだ」  更に話を続ける。 「あの部屋で樹を完全に覚醒させるためには、どうすればいいのか、考えた……だから君の望むままに行動した」 淡々と話すオリフィの横顔を思わず見た。人間だったらこんなに感情を交えずに話すだろうか。 助けられたのを感謝すべきだろうが、自分が気まずい思いをしていることに何の思いも抱いてないようだった。 「ありがとよ。でも……その……あそこで何があったか、覚えてるんだろ?」 あの鏡の部屋で樹の心を治したいと言って見つめるオリフィを思い出し、心の中に温かいものがめぐるのを覚えたが、やはり恥ずかしいという感情の方が先に立つ。 だが、眼の前の天使は、と言えば冷淡なほどだ。 「ああ。しかしあれはこの器に現実に起こったことではない」 「そうか」 あの部屋で起こったことは言わば夢のようなことだ。鏡が見せた願望、いや幻影。そう思いたい。 樹は小さなため息をついた。 「樹」 「何だ?」 「あの飲み物……シャンパンをまた味わってみたいと思うのだが」 そう言ったオリフィはわずかに眼を伏せた。恥じらっているようにみえたのは気のせいだったかもしれない。 天使の罠に捕まったかも……そんな想いも胸のうちに湧き上がる熱に消えていく。 樹はベッドから起き上がり、オリフィに近寄った。 (終わり)
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