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一本杉の根元、小さな点を打ったように虚が口を開いている。その下では太い根が山を捕らえるかのごとくがっしりと地面に食い込んでいて、そのうねりに沿って椎茸が群生していた。杉の根元に椎茸が? 原木栽培の姿しか知らない私は不思議に思い顔を近づけてみたが、紛れもなく椎茸だ。根の周りの土を掘っていくと弾力のある物体に触れた。それは豪奢な衣装を身に纏った死人だった。頭に細かな細工物を乗せ口を真一文字に結んだ青白い顔は、女王卑弥呼を想わせた。そして頸には太い紐が幾重にも巻かれていた。私は紐を解き死人を背負って襷掛けに縛ったが、紐はだらしなく伸びてしまってずり落ちる。紐だと思ったのはゴムだった。縛るのを諦め大きく曲げさせた膝の下に腕を深く差し込み、肩から垂らした両手首を腹の前でしっかりと握った。緋袴の裾が捲れて淡い燐光色の骨ばった膝頭が顕わになった。その凹凸は幼い頃亡くなった兄さんの顔に似ている。背中からぼろぼろと土がこぼれ落ちた。
山中を彷徨っていると波の音が聞こえた。海が近いのだろうか。波音の合間を縫って地鳴りのような音が聞こえた。それはどんどん近付いてきて、突然黒い車が目の前に現れた。霊柩車だ。車から降りてきた喪服の男が私から死人を奪い取り、胡麻を乱暴に投げつけてきた。私は咄嗟にシャツの裾を持ち上げ受け止めた。車は去り、腹の前に胡麻を溜めた私は行商人のように歩いた。土の臭いと胡麻の香り、微かに漂う海の匂いを頼りに山を抜けると目の前に砂浜が広がった。数十メートルほどの距離、満潮になれば沈むあたりに囲炉裏がある。炉端には一人の老婆が座って守りをしている。私は砂に沈む足を引き抜きながら走った。胡麻がこぼれる。近付いてみるとはたしてその老婆は母であった。とうに死んだはずの母。今際に握った母の手の感触が蘇る。囲炉裏は四方を透明な壁で囲われていて、入り口を探していると喪服の男が現れ名札を見せろと言ってきた。名札? 名札はない。胡麻ならこんなにもあるが。私は腹の前でシャツを持ち上げて見せる。いいだろう。男は言って私の両腕に死人を乗せた。空蝉のように軽いそれは母だった。手を握ると冷たく粘土のように固い。私の混乱に付き合うつもりはないとばかりに、颯爽と霊柩車がやってきた。男は私の腕から母を奪い取り手際よく積み込むと、クラクションも鳴らさずに走り去ってしまった。母の手の感触だけを残して。
打ち捨てられた私はきつい風に晒されながら砂の丘を上った。砂が頬を打つ。丘の上ではロックバンドが髪を振り乱して演奏していた。風の音にかき消されてほとんど聞こえないが、目を覆った手指の隙間からは汗をほとばしらせ躍動するメンバーの姿が見える。演奏が止まると風も凪いだ。ボーカルが近寄ってきてお前はもう一つの浜を目指しているのかと訊ねてきた。何のことかわからなかったがここに居続ける気もなかったのでそうだと答えると、その人は背後の納屋から一本の太いゴム紐を取り出して私に手渡した。先には黒猫が繋がれていて私を見上げてミャーと鳴いた。砂に膝をついて顔を近づけると、突然猫は私の顔を引っ掻いた。灼けるような痛みが走る。見ると猫の手にはナイフが握られていて、その横には私の鼻が落ちていた。顔の中央から生温かい液体がドロドロと流れ出ている。私の血はゴミの臭いがした。もう体が腐り始めているのかもしれない。どこかから南無阿弥陀仏の合唱が聞こえる。ああそうなのか。曖昧な納得とともに最期くらいは見目を整えたいと思い、私は髪に櫛を通した。
『もう一つの浜』そこが私の向かうべき場所なのか。私は歩を進めた。丘を降りると消炭色の浜が広がっていた。左手から波が打ち寄せ砂を削っている。と、沖合に暗雲が立ちこめ、それは瞬く間に近付いてきて波は羽音に覆われれた。蝗の大群だった。ああこれが私の死か、悪くはない。そっと目を閉じてその時を待った。ところがいつまで経っても何も起きない。再び目を開けると海から突き出た巨大なろくろ首が、大口を開けて蝗の群れを喰っていた。首は蝗の体液を迸らせては悲壮な声を上げて泣くのだ。あらかた食い尽くすと今度は沖から大きな波が迫ってきた。ろくろ首は身動ぎもせず波を眺めていたが、そのまま飲まれて沈んでいってしまった。その光景を見ながら何故か私も泣くのだった。
滲む視界に動くものがいる。熊だ。波打ち際でしぶきを浴びながら太い腕を振るい鰊を狩り獲っている。次々と宙を舞う鰊の山から私は両腕で抱えられるだけ抱えて納屋に運んだ。扉を開けるとなかには道があり、一直線に城に繋がっていた。城の入り口には封印の札が貼られている。その時するりと一匹、鰊が腕から擦り抜けて落ちたかと思うや、けたたましい金属音が鳴り響いた。足許を見ると罠が閉じて魚を粉々に砕いている。私はぞっとしたが、魚を下に置いて重い扉を力一杯引いた。冷たい空気と共に山葵の香りが溢れてきた。母がいる。すり下ろした山葵と胡麻を和えた鰊料理が母の味だったのを思い出す。母さん。思わず駆け出した途端賑やかな音楽が響き渡り、目の前にサンバの列が現れて行く手を塞がれた。華やかな衣装を纏ったダンサーたちが名古屋城の鯱を掲げて大きさを測れと迫ってくる。私はやむを得ず竹の尺で測ろうとするが、鯱は大きすぎて何度やっても測れない。ダンサーたちは軽蔑の視線を私に注ぎ鯱をミニカーに乗せて去ってしまった。
気づくと周囲には人も調度も扉もない。空間そのものが消えてしまったかのようだ。どこからともなく南無阿弥陀仏の声が聞こえる。椎茸の香りに包まれる。そうだ、あの椎茸が始まりだった。母の料理は山葵と胡麻と鰊ではなく、乾燥させ粉にした椎茸の出汁で鮒を煮込んだ料理だった。私の記憶はどこから道を逸れてしまっていたのだろうか。そしてどこへ向かっているのだろうか。
〈了〉
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