0人が本棚に入れています
本棚に追加
コーヒーが好きだ。
なんというか、まあ、好きだ。
子どもの頃から好きで、うっかりカフェイン中毒気味になってしまい、他の飲み物も美味しいのだと周囲から切々と語られるくらいに好きだ。
不眠症気味になろうとも、食事を摂るのが困難になろうとも、精神が不安定になろうとも、好きだ。
コーヒーのなにが好きなのかと聞かれて、香りだとこたえればコーヒー染めの小物を持たされ、コーヒー豆を匂い袋に入れて鞄に入れられた。
常にコーヒーの香りがしていれば、気が済むのではないかと思われたらしい。
ひとくちにコーヒーと言って、どれだけの種類があると思っていたのか、体調によって好む香も変わると言うのに…
次は、コーヒーショップで働いてみた。
仕事とすれば、嫌気がさすのではないかと期待してみた。
まあ、そうだね天職だったよね。
おかげさまで、気付いたらエリアマネージャーにまで上り詰めていた。
此処に至るまで、コーヒーは口にしていない。
一滴もだ。
ひとくちも口に出来ないが、そのぶん知識と薫りへの感覚が鋭敏になり、いくつかの民間資格も得てバリスタにもなった。
どのくらいの年月なのか思い出せないくらいに、コーヒーを口にしていない。
ただ目の前で、自分が淹れた一杯によって満足そうな表情を浮かべる人々を眺めてきた。
白が基調の見慣れない部屋に住むようになって、どれくらいの時が経過したのかは分からない。
ただ、ここから自宅にも店にも帰ることが出来ないことだけを理解している。
コーヒーが好きだと告げれば、世話をしてくれる若者たちが慣れない手つきで、まるでなっていない淹れ方をしたコーヒーとは名ばかりの液体を出してくれるが、申し訳ないがそれを口にすることはない。
理由を話せば、よく応対してくれる若者は複雑な表情をする。
ある日、いちばん多く顔を見かける若者が、私の店のロゴの入ったカップやポットを持って来て言った。
「コーヒーを、淹れてくれませんか」
必要なものが他には無いのか尋ねられる。
すべて揃っていた。
聴けば、身近に詳しい人間が居て用意してもらったのだと若者は答えた。
考えるよりも身体が覚えていた手順で淹れているうちに、頭がはっきりしてきた。
ああ、ここは….…
二人ぶん淹れて、ひとつを自分側に寄せれば若者が驚いたように目を丸くした。
「今日、コーヒーを解禁しようと思うよ。
私がコレを飲んで、あなたは叱られたりしないかい?」
若者が首を横に振る。
私は、カップを持ち上げて先ず薫りを楽しみ、すこし渇き気味の自分の唇を寄せてカップの中身を口に含む。
温かな液体が、苦味と香りを口内に広げる。
「我ながら、旨い」
満足して頷けば、目の前の若者も笑顔を浮かべていた。
最初のコメントを投稿しよう!