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修司の店で食事をした時、修司は代金を受け取らないのと、部屋に行った時に作ってくれる食事の費用なんかも合わせて、月に決まった金額を渡している。修司は「要らない」と言うけれど、それでは店に食べに行けないからと言って無理やり受け取って貰っていた。修司に女が出来て、店に行かなくなる時には渡さないから、財布の中身には少し余裕があった。
岡野主任が案内してくれるすき焼き屋さんが楽しみで、会話も足も弾んだ。
「お、ここ」
老舗らしい落ち着いた佇まいが高級感を醸し出し、余裕があるとはいえ、やはり財布が気になった。
「店の見た目ほど、そんなに高くないんだよ」
ぽんぽん、と背中を軽く叩かれて「は、はい」と声がうわずる。
ここは完全な個室で、静かな和室に向かい合わせで座ると一気に緊張した。この前の様に、周りの賑やかな声もせず、正座した足を動かす音さえ聞こえてしまうほど静かな空間。
「足、崩しなよ」
そう言って主任があぐらを掻いたので、「失礼します」と俺もあぐらを掻く。
メニューを渡され、主任が言っていた通りに思ったほどではなくて、ほっとする。
「うーん!美味しい!」
本当に美味しい。上機嫌ですき焼き鍋をつつき、ビールも進むと酔いが余計に楽しくさせた。
主任の話しは楽しくて面白くて、上司なのに気も遣わせない配慮が流石だと思った。
「春名君、彼女いるの?」
不意に訊かれて絶句してしまう。身体の関係はあるけれど、彼女… じゃないし恋人でもない、自分が一方的に想っているだけだから「いません」と答える。
「ん?なんか怪しい答え方だね」
ビールを飲みながら主任がニヤリと探るように顔を覗き込んだ。
「ほ、本当ですよ!主任こそ、週末なのに俺なんかと鍋つついて、彼女さんはいいんですか?」
彼女がいるのか分からなかったけれど、そう言ってみた。岡野主任は女子社員から結構な人気のある人で、本気で狙っている人もいるくらいに格好の良い人だったから、もし彼女がいなくても失礼にはならないだろうと思った。
「彼女なんていないよ」
ははっと笑ってビールのジョッキを飲み干すと
「春名君は?ビール、お代わりは?」
少し残っているジョッキを飲み干す様に促される。
結構飲んだし、食べた。トイレに行く為に立ち上がると、少しふらつくほど飲んでしまった。
足元がおぼつかない。
トイレに行っている間に主任が会計を済ませてくれていて、店を出た後に払おうと財布を手にすると
「いいよ、俺の奢り」
とまた言う。
「だから〜、駄目ですって!」
酔っ払ってしまった俺は、身体を揺らせながら財布を開けようとする手を掴まれた。
「本当に、俺の奢り」
その顔が真剣だったから、俺の酔いは一気に醒めてしまった。
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