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その人が太宰府に来たりて、八年の歳月が過ぎた早春の頃である。太宰府を見下ろす小高い山の頂で、芳しい香りを漂わせた娘が目元を潤ませ、正面の石に座る幻影を見つめていた。そこには直衣を身に付けて烏帽子を被り、顎には白鬚を蓄えた老人が、悲憤を覆い隠すように穏やかな顔をして座っていた。
「天帝様から聞いておるが、そなたが梅の木霊か」
「はい。ご主人様には大切に育てていただきました梅の精にございます。此度、彼岸の地にお渡りなされたと、天帝様よりお知らせがあり、木霊となって飛び来たりましてございます」
「そうか。なれど余は、彼岸の地ではなく賽の河原で彷徨う児の如き迷い人じゃ」
「やはり左様にございましたか。まさにお労しい限りにございます」
老人が語った悲嘆の言葉に惹かれ、娘は見つめ直した。老人の穏やかな顔に反し、その後背にはメラメラと燃え立つ焔のような火影が立ち上がっており、まるで不動明王の姿を彷彿とさせている。これこそが瞋恚の炎かと、娘は老人が抱く仇怨の深さを確信していた。
「余は、国を守り民の安寧を保つため、誠心誠意、太上王それに王に仕えてきた」
「それは仰るまでもなく、誰もが知る所にございます」
「なれど、思いもしなかった時、不意に出された宣命。あれは何であったのか。素知らぬ振りをしておったが、かの摂関家当主の容喙があったことに疑いの余地はない」
「それはご主人様が太宰府へ立たれた後の、かのお方の振舞を見れば間違いございません」
天帝から聞いていた宣命の内容に加え、摂関家当主の行いを具に見聞きしていた娘は、直ぐさま答えていた。その振舞とは、王のもとに入れていた妹を女御の地位に就かせ、その後に出産した皇子を僅か二歳で立太子させた。これで、摂関家当主の権威が確立したことになる。
「立国の功臣であるあの一門は、専権を保ち続けるため、意にそぐわぬ者は形振り構わず蹴落としてきた。それが国や民のためになるのであれば吝かと思わないでもないが、然に非ず、己の我欲のみに過ぎない。此度のことも、その時流にのった所業であり、見過ごす訳にはまいらぬ」
老人が憤怒の形相に様変わりすると、後背の焔に勢いが増している。
「判りました。如何様にも致しますので、ご内意をお示し下さいませ」
娘は平伏した。
「このこと既に、天帝にもお許しを頂いておるが、まずは強権を振り回す摂関家当主を鬼籍に入れたい」
「はい。如何様に致されますか」
「彼奴には完璧な消滅を与えるため、心の臓を喰らい尽くすことにしたい」
「それは、荼枳尼天の如き仕様にございますか」
「その通りじゃ」
「ならば、そのお役目は私奴にお命じ下さい」
「ほう、その故は」
「このお方のように、その身分に反し下種なお考えをお持ちの人に、ご主人様自らお手を下すことはございません。何卒、高みからご賢覧頂きますればと考えます。更には、荼枳尼天と申せば女神にございますれば」
「その通りじゃ。手始めは、そなたに頼もうか」
この娘から発せられたものなのか、或いは周りの梅林から漂って来たのか、山の頂に梅の香りが満ちていた。
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