天神

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 それから一年が過ぎた頃、老人の幻影は、都の北となる船岡山の頂にある巨岩の上から街並を見下ろしていた。側には娘が端座し、同じように眺めている。天上には蒼空に映えるように、早春の日射しを放つ日輪が煌めいている。ここから見ると、穏やかに流れる時の移ろいを、人々が何事もなく過ごしているように思える。しかしながら、その中で権勢の中核にいる僅々の人々にとっては、間もなく訪れる恐怖の場景を知るよしもない。それは、その人を無き者とし、盤石とした専権に疑いを挟まなかったからである。しかも、その人が都を落ちて八年、世を去って六年が過ぎており、忘れ去られた過去の人になっている。老人は、こんな都の様相を知り、滾る怨念を抑えるようにして娘に問い掛けた。 「彼奴を鬼籍に入れる仕様は捗ったか」 「はい。この一年で整いましてございます。ご下命の通り、心の臓を喰らい尽くすため、青竜に化身して入り込む算段にございます」 「青竜とは、四神の中で東の流水になるが」 「はい。鴨川の水神に憑依致します」 「そうか」  中御門大路の北、堀川小路の東にある摂関家当主の館では、寝所の中が慌ただしい雰囲気に包まれていた。それは一昨日に当主が突然倒れ込み、薬師の手当に加え、僧による快癒祈願が執り行われている。そんな寝所には何やら霊気が蔓延っており、その霊力と祈祷の力が拮抗する様相を呈していた。祈願のために設けていた結界の中に座り、呪文を唱えている僧の目が瞬きもせずに架空を睨んでいる。何かに縛られているのか、額に滲む汗が滴り、顎先から垂れ落ちても拭うことも出来ないでいる。そんな僧の様子を高みから伺っていたのか、怨霊が僧に投げ捨てるように声を発した。 「吾主は、ここから立ち去れ。さもないと、吾主の命も亡くなることになろう」  我に返った僧が慌てふためいて結界の中から這い出し、寝所から飛び出して行った。 「どうされましたのか」  この家の家司が僧の後を追っている。階を飛び降りるように走り抜け、庭園の池の側で追い着かれた家司に、僧が答えた。 「あれは、太宰府に左降となったお方にございます」 「何のことを仰いますのか」  震える声で話した僧に、家司が戸惑いの言葉を繋いでいる。 「寝所には、怨霊が修羅場を成しております」 「なんと。怨霊が当家の当主に祟っていると。しかも、その怨霊は、かのお人だと言うのか」 「正に修羅の妄執かと」 家司が、過ぎ去った過去の経緯を思い起こしているのか、黙考している。 「いや、妄執と言うものでなく、あの人の怨讐が怨霊となって舞い戻って来たのかも知れん」  この時、寝所からけたたましい女官の叫ぶ声が響いて来た。何事かと家司が急いで戻ると、当主の耳からは血を垂らしながら竜に似た小さな生き物が這い出している。 「何と、これは如何なることなのか」  家司が、気を失している女官を横に見て、絶句していた。  その生き物は、辺りを見廻すと首を擡げ、何かに頷くと空中へ煙が立ち上るように姿を消している。家司が直ぐさま当主の枕元に近づき、その様子を伺うと、既に死相が現れていた。
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