天神

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 雷神から抜け出た老人と娘は、東に向かって流れる黒雲を見送り、地上へ降りていた。ここは都の北西に広がり、洛北七野の一つである北野と呼ばれる地である。 「あれほどの落雷であれば、宮殿の内では罹災から免れることは難しかろう」  木立の下にある石に座った老人は、娘に感慨を漏らした。 「まさに、その通りかと思われます」 「これで余の怨霊に鬼気が迫る思いを感じていた王も、長くは持つまい。余も漸く、三途の川を渡ることになる」 「すると、ご主人様とはお別れすることになりますのか」 「余の思いに、よく応じてくれたそなたの前から去るのは心苦しいが、世は既にこの世のものでなく致し方が無い」 「左様にございますか。なれど、ご主人様の名残を、この世に残す手立てはございませんか」 「そうじゃのう。ならば、この地にある右近の馬場は、この世にあった時、しばしば訪ったところじゃ。そこで、ここに小さな祠でも構え祀って欲しいものじゃ」  老人が懐かしそうに顔を上げ、覆うように茂る木々の葉を眺めていた。 「あい、判りました。ご意志は、必ずや叶うように致します。そこで今一つ、私奴が懸念していたことがございます」 「それは如何なことか。この世の積怨を晴らせたようでもあり、如何なることでも応じて差し支えは無かろう」 「それはありがたき仰せにございます」  娘は老人の顔を見上げていると、かつてこの世にあった頃の面影が蘇っていることに気付いている。そして、その後背に見えていた火影も、消え去っていた。そこで、安堵の気持ちを抱き、娘は問い掛けた。 「ここまでのこと、ご主人様のご無念の限りと存じます。しかしながら、あの宣命が示される以前には、ご主人様とかのお方らとの間柄は、遺恨を残されるほどに悪くは無く、むしろ諸般のことを指南されることもあったと聞いております。それが、何故にこれ程まで、離れられることになられましてございますか」  老人が、昔日のことに思いを巡らしているのであろうか、天空を見上げている。そこに覆っていた雲が、老人の意志で動かされたのか、日の光が隙間から射し込んで来た。その光を見た時、老人が語り始めた。 「それは、やはり我欲が成すことであろう。それも己に重きを置かすため、一党に及ぶものになる」  こう話した老人が、一息をついてから再び語り始めた。 「王はかつて英邁な皇子であられ、摂関家当主にも文で指南を行ったこともあった。なれど余が太上王の信任を得て、宮中で重きを成すに連れ、彼奴は己の立場を失うことを恐れたのであろう。そこで彼奴らが頭に浮かべるのは、かねてからやって来た対抗者の追い落としである。それで余の有りもしないことを並べ立て、王に申し伝えよった。それは王も彼奴と共有出来る益であることから、易々と受け入れられた」 「そこで出されたのが、あの宣命にございますか」 「そうよ。その仕打ちが太宰府への左降であり、しかも閑職で幽閉同然の扱いであった。そんな仕打ちは余ばかりで無く、余の一門にも及んでいる。ここまでの仕打ちとなれば、心意は離れざるを得なくなり、瞋恚が燃え立つばかりに至ることになった。そこで、祭文を天帝に奉じ仇怨を晴らす許しを得たが、それを成す時は既にこの世の者では無かった。だが、怨霊にあればこそ、叶うことになるのかも知れん」  娘は、老人の口元に一瞬の笑みを認めた。これが老人の仇怨を晴らした証しであると思った。
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