5人が本棚に入れています
本棚に追加
四神相応とされた都の地には、国家の民草からすればほんの一握りの人々が、王を守るという建前の下に煌びやかな社会を形成していた。律令という決まりに守られた家格は世襲をされ、各地の荘園から収納される品々で何不自由のない裕福な暮らしが営まれている。況してや有力な権門勢家には、国群司の入部を拒むため進んで荘園の寄進が行われ、益々権益を増していた。こんな社会を民草から見れば雲壌懸隔の結界地であるが、その中に身を置けば権力、権益を占有しようとする人の性が渦巻き、まさにどろどろとした人々の我欲で満ちていた。
そのような我欲に翻弄されたその人は、我欲の鉾先を向けられた末に左降となり、怨みを残した悶死であった。その左降が讒言によるものであったにしても、裏切られた怨みは骨髄に徹することになった。それは、その人にとって赤誠を尽くした忠義が、いかに気高いものであったかの証左でもある。
代々学者の家柄に、その人は育っていた。十八歳で文書生となり、その三年後には官吏登用試験に合格し玄蕃助・少内記を経て、更に四年後には兵部少輔に、ついで民部少輔に任ぜられた。その後、讃岐守に任官していた頃、前の摂関家当主が、任命された官職名を名誉職に過ぎないとして、職務を忌避した事件で見識を示した。今の太上王が王であった時であるが、そのことで信任を得たその人は、王に近侍し宮中の業務を司る蔵人所の頭に任命された。これは王位継承にも影響を及ぼす摂関家の専横を抑えるための方策であった。そのような国の権力者が、国事の遂行より専権を維持することに腐心する時、成すことといえば対抗者の追い落とししか頭に浮かばない。そこで太上王と親密な関係を築いていたその人は、右大臣にまで任じられていたが、従二位へ昇叙した十八日後に突如として九州太宰府へ左降された。それは、左大臣に任官していた摂関家当主の讒言を受けた王の宣命によるものであった。
そこには、「下流の出で分を弁えず専横の心がある。王の廃位を行って父子の慈を離し、兄弟の愛を潰すことを欲している。詞は正道に従うが心は逆で、これは天下が知る所」と示されていた。
悶々とした日々の中で天帝に奉じていた怨みの祭文は、やがて聞き届けられ、怨霊となって仇怨を晴らしに向かうことになる。その人の死霊となる怨霊を信じるか否かは、厭魅呪詛に満ちた時代背景からすると、至極当然のこととして世に浸透していく。況して、その人に害を成した者にとっては、まさに迫り来る鬼神の如く思えたに違いない。
人は魂が身体から離れることで死を迎えるとされていた。そんな霊魂は、霊媒によってあらゆる物に憑依しうることになる。そこに、その人が都を離れる際に語りかけた梅の木から陽炎のように抜け出た木霊が、まるで山彦の如く左降の地まで飛び来たっていたのである。
最初のコメントを投稿しよう!