第1章 青嵐の予兆

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第1章 青嵐の予兆

 富士の山を東に見る羽代(はじろ)藩は、領地の南側が大洋に面している。気候は年間を通して温暖で、冬の間、二、三日ほど雪が降ってもそれが根雪になることはない。他の地方と比べて緋色の濃い羽代の桜は、三月も中旬に花弁を落とす気の早さである。  今、羽代を総べる朝永家当主の居城である羽代城では、散った桜の代わりに既に早緑(さみどり)の若葉が伸び始めている。  羽代城内三の丸には、以前、使用人の住み込み部屋が連なる長屋が何棟か建っていたが、昨年末に公示された羽代家中の大規模な改革に伴って、その半分以上が撤去された。広い更地はそのまま広場に、そこで三日おきの軍事訓練が行われている。  今日もその訓練の準備に、朝から多くの者が行ったり来たりを繰り返していた。  秋生(あきう)修之輔(しゅうのすけ)は、改革に伴う人事でそれまでの城内住み込みの下働きから番方の馬廻(うままわ)り組に配属されたものの、取り壊されなかった長屋の残り部分、菊部屋とかつて呼ばれた部屋に住み続けていた。  相部屋だった者達はそれぞれの事情と意志で部屋を出て、残っているのは修之輔一人である。けれど、かつてここに住んでいた者が今でも修之輔の住む部屋に集まりがちで、今日も訓練の集合時間よりも早く登城した木村がふらりと遊びに来ていた。 「秋生、茶を淹れるぞ」  修之輔の返事を待たず、ガタガタと部屋の片隅の茶箪笥から木村は湯呑を取り出した。  木村は以前、修之輔と同じく城住み込みの使用人だった。この部屋で共に寝起きをしていたが、小役に就いたのを契機に城下に小さいながらも自分の屋敷を新しく建て、そこから通いで城にやってくるようになった。そして勝手知ったる他人の部屋、木村は日に焼けた丸顔も機嫌よく、馴れた手つきで土瓶も持ち出して、茶を淹れる準備をし始めた。 「おじゃまします」  木村に遅れて部屋に入ってきたのは、やはり以前、一緒に菊部屋に詰めていた三山である。改革の後、要職が集まる二の丸御殿で用人見習いになったものの、たまにこうして人の集まる気配を察して遊びに来る。  三山が常日頃から、地味だ、と、不満がっていたお仕着せの着物を着なくて良くなった分、身なりが生来の派手好みになるのかと思いきやそうでもない。なんでも新たな勤務の初日早々、上役から、視界に入るだけで目が疲れる、と面と向かって苦言を言われたらしい。  本人曰く、多少気合を入れただけです、というその服装がどんなものだったのか(つまび)らかではないが、三山は新たな自分の上役の言葉を不承々々(ふしょうぶしょう)に承諾した。それからは霰小紋(あられこもん)の紺袴、小袖は濃灰の無地に黒羽織という無難な装いである。  それでいいのか、と木村に聞かれて、三山は、城から下がって世話になっている用人屋敷の自室に戻れば、あとは綸子でも友禅でも、何を着ても自由ですから、と答えたというから、城中の使用人部屋を出てからはのびのびと暮らしているらしい。  木村が茶を注いだ湯呑を当然のごとく受けとって、三山は口を利かない部屋の主、修之輔の方を覗き込んだ。 「秋生殿、髪型を変えるのですか」  三山の言葉に、どうやら修之輔の様子を先ほどから気にはしていたらしい木村も重ねて言葉をかけてきた。 「そうそう、さっきから髷を解いてなにしてんだ、秋生」  そう聞かれても、今、木村が云った通り、自分の(まげ)を解いて髪を束ねている両手は塞がり、手には持てない元結(もとゆい)の紐を口に咥えているので迂闊に口を開くことができない。それでも答えを待っている二人の様子に諦めて、修之輔は髪を束ねていた手をいったん下ろし、元結を口から外した。 「江戸では髪をこのように、一か所で結わえて下げていろと加納様から命じられた」 「ははあ、参勤の準備か」  命じたのは加納であっても、下級藩士一人の身なりに口を出す細かさは、むしろ数々の調略を手の内の術とする羽代の重臣、田崎の差配ではないかと思われた。  田崎は現在、修之輔に直接指示することを羽代の当主から強く禁じられている。にもかかわらず、同じ家老職の加納を介してでも修之輔に伝えた指示が、髪型について、とは、腑に落ちない気もするが、江戸で何らかの任務を命じられるその先触(さきぶ)れと思えばある程度納得もできる。  だが、髪型一つでそこまでは考えが及んでいない木村が、気軽な感想を寄越してきた。 「ふうん、そうやって結わえるとなんだか若く見えるな。秋生は二十四だったか、その髪型だと二十歳そこそこに見えるぞ。この城に来てからも月代(さかやき)を剃らないでいたのは、これを見越してか」 「ここに仕官が決まった時に整えようとも思ったのだが、田崎様に止められた。その時すでに江戸参勤の日取りは決まっていたはずだから、そういうことなんだろう」 「秋生、お前、髪型も他人任せか」  他人任せというわけではなく、上からの命令に従っているだけなのだが。修之輔は特に応える必要もないと、改めてまた両手で髪を纏めて結わえる作業に戻った。そんな様子を横目で見ながら、三山が木村に負けない呑気さで話を続ける。 「江戸で今、流行っていますよね。月代を剃らずに伸ばす浪士風や講武所(こうぶしょ)風。近頃はお大名でも月代を剃らない方が多いそうですし、うちも弘紀様は月代を剃らずに髪をそのまま結い上げておられますから、家中でどのような髪型でも別にかまわないのだと思いますよ」  私も伸ばそうかなあ、と毎日どころか朝晩の二回、丁寧に剃り上げているという自慢の月代に触れながら三山が云う。いっぽうの木村はペチン、と、やけにいい音を立てて自分の額を叩いた。 「伸ばしている最中がどうもみっともなくてなあ。儂はこれでいい」  呑気な木村の言い様に、三山がやけにきっぱりと言い放つ。 「決めた、皆さんが江戸に行かれている間に私は伸ばしますよ。どうせ木村殿と私はここで留守番ですから」 「なんだ、三山はまだふてくされているのか。しょうがないだろう」  羽代の当主、朝永(ともなが)弘紀(こうき)は、今日から数えてあと十日ほどで参勤のため江戸に向けて出立する。この参勤に付いていく者、国に残る者の割り振りは、正月二日に公布されていた。  参勤行列免除の名簿に名を見つけた三山の落ち込み様は正月の目出度い気持ちも見事に打ち消し、同じく免除となった木村が領地境まで皆を見送りに行こうと誘う言葉にも、三が日過ぎて松の内が明けるまで、応じようともしなかった。 「ふてくされていないですよ。家老の西川様のお嬢様から、うちに人が少なくなって寂しいから遊びに来て下さいとお誘いも受けていますし」  なんだぁ、玉の輿でも狙うのか、と間延びした木村の声に、西川様が(しゅうと)というのも面倒ですね、と三山が適当な返事を返している。  そんないつも通りの部屋の外、廊下を足音高く歩いてくる気配があった。大股な歩幅で近付いてきた足音の主は、部屋の中へ声を掛けることなくいきなり襖を開け放った。 「おい、お前らそろそろ時間だぞ、出て来い」  春の風が部屋の中を吹き過ぎる。  大きな一声とともに現れたのは、羽代城の務めについてはここに居る誰よりも先輩格である外田(とだ)だった。
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