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脇本陣で出された簡素な夕食の後、修之輔の他数人は宿場の見廻りの任に呼ばれた。とはいっても江戸市中なので、警邏する役人は他にいる。どこの家中の者か、羽織の紋があきらかにする藩士が見回りをすることで、今夜本陣にその国の大名がいることを周りに知らせ、不用意に近づかないよう注意を促すのが修之輔たちの役目だった。
二、三人が組になって一刻置きに出るその見廻りは、修之輔はいちばん最初の組に入れられた。
「秋生は道中、ずっと馬を牽いていたし、今日は本陣にも呼ばれて仕事をしてきたのだから早く休め」
気遣う山崎の言葉に、素直にうなずけないのは、本陣でしてきたその仕事の内容のせいだった。
修之輔と組んで見回りに出るのは小林の他、石島と名乗る江戸勤番の者だった。そして石島と小林は知己であるらしい。脇本陣の門前で軽く互いに頭を下げる程度の挨拶をしただけで、あとは話しながらの見廻りを始めた。
「久しぶりだな、小林。どうだ最近の羽代は」
「変わらんぞ、みんな元気だ」
「変わらんということはないだろう。ご当主が変わったではないか」
「ああ、そうだな。うん、役に就く者が多くなった」
「外田さんも役に就いたと聞いたが、あの人、何ができるんだ。剣術の腕前はそこそこだったが、他は漢籍も珠算もできないじゃないか」
「そういった仕事は確かにあの人には無理だ。就いたのは番方だ」
ああ、と深く何度も頷くその様子から、石島はその事実を納得したようだ。外田のことを知っている石島は、小林を含めて、昔からの友人のようだった。
「そうそう石島、山崎から聞いていると思うがこっちは秋生だ。昨年から羽代に来た」
小林が修之輔を手で示す。修之輔は頭を下げた。
「秋生か。見ない顔だとは思ったが、近くで見ると随分色男じゃないか」
はあ、いろおとこぉ、と小林が変に気が抜けた声を出す。
「なんだ、小林。秋生のこの顔、役者の内にもそうそういない整い方じゃないか。江戸では色男と呼ぶが、羽代ではなんと云うんだ」
「儂らはもう見慣れているからなあ。しかも石島、秋生はそっちの方面、全然浮ついた話を聞かないから、色男と言われてもどうもしっくりこない」
ふうん、と、石島が首を傾げて修之輔の顔をしげしげと眺めてきた。外田の役付きより、こちらのほうが合点がいかないらしい。考えていることが率直に態度に出る人物の様だ。
「羽代には今、奥がないし、女っ気がないから仕方ないのかもな。まあ秋生、江戸で遊んでいけばいい。いい女がたくさんいるぞ」
「それで石島、それよ。先代の奥方、あれは結局どうしたんだ」
「それが小林、なんと……」
そうして小林と石島がなにやら小声で話し出す。
品川宿は云わずと知れたこの東街道の内で最も栄えている宿場町である。日が落ちても、いや日が落ちてからの方が辺りは賑やかに、料理屋の軒に下がる魚も昼より多い。
駕籠を連ねて馴染みの店に乗り付ける数人の商人の他、二本差しの姿もちらほら見える。抑揚は少なくとも歯切れ良い江戸言葉がそこかしこに飛び交って、その中には若い女の声も混じる。
「小林、道を変えるぞ」
伸ばした鼻の下が戻らずに、うっかりあちこち呼び寄せられる小林の袖を石島ががっつり掴んだ。石島に付いて修之輔たちは大通りから逸れ、細い道に入った。ざわめく大通りだが、道を一本奥に入れば住居が連なり、さらに進めば畑が広がる。
人一人が通れるくらいの曲がりくねった細い路地を歩きながら石島が云う。
「小林がどこぞの飯盛り女に袖を引かれて連れ込まれる前に、近道をして見廻りを終えるぞ」
「儂は連れ込まれても、それで構わんのだが」
住居の合間からちらちらと見える大通りの灯りを未練気に眺めながら小林が云う。
「あのなあ、今、品川の表向きは賑やかで盛っているように見えるが、実のところ物騒なんだ。どのような輩が店の奥座敷に潜んでいるか、往来でいつ斬り合いが始まるのか、実際のところ分からんのだ」
お前らのような世間知らずの面倒を見るために俺ら江戸勤番が呼ばれたんだぞ、石島はそう言って肩を聳やかす仕草を見せる。それでも小林はまだ往来にちらちらと視線を向けている。それとは別の方に目を向けた修之輔の目線の先、そこだけ煌々と明かりがついた建物が見えた。小さな寺院のお堂の様だ。
民家のほとんどは暗くなっているこの時間、そのお堂にあちらこちらから人が集まって来ている。よく見ると全て高齢の女性のようだった。腰の曲がった老婆が一人で、あるいは友人同士なのか店のおかみさんらしき風体の初老の女性が二人連れで、手に風呂敷包みを下げて集まってきている。賑やかな雰囲気が伝わってくるが、祭礼という様子ではない。
修之輔の目線の先に気づいた石島がどうした、と聞いてきた。
「あれは」
「ああ、あれは念仏講の集まりだ。年取ったばあ様達が手料理を持ち寄って一晩、夜明かしをする。そういやあ、羽代には講があまりなかったな。庚申講があるぐらいか。城下の八幡様の御加護で充分だったからなあ」
羽代には領地内に古刹がいくつかあり、また神社も多くあった。各々がそれぞれに信仰を寄せていたので、他国にある神社や寺の講はほとんど行われていなかった。羽代を立つとき、古刹の住職の後ろに神社の神官数名が控えていた姿を思い出す。
「江戸はなあ、いろんなところから人が集まっているせいか、地方の神社や寺が行者を寄越す。そやつらが町のあちこちで講を開くから、まあ、明日は庚申講、明後日は秋葉講、五日後にはなんとか山の行者様がいらっしゃる、などと町民は忙しくしておるわ」
そういえば街道を歩きながら、白い揃いの衣装に身を包んだ十数人の集団や、柄杓を持って東海道を西へ向かう神宮参りの姿も見た気がする。
「今は何と言っても富士講が人気だな。小林も秋生も、江戸にいる間に何か入るか」
石島が気さくに声を掛けてくる。修之輔は少し言葉遣いに迷って、けれど小林との会話を聞いていた分には虎道場の面子と変わらない対応で良さそうに思えた。
「三月あまりしか江戸にはいないから、ここで講に入ってもどうだろう」
修之輔の言葉に石島が頷く。
「そうだなあ。俺もこっちにきて知り合いの勧めで大山講に入ったはいいが、さて、羽代に戻ったらどうするか。大山参りの名目で、毎年旅に出るのも良いかと思っているのだが」
石島は、どうやら信仰よりも観光が大事らしい。大山参りには行ったのか、と小林に聞かれた石島が、行ってきたぞと返事をし、その時の話をしながら先を行く。
品川の町は曲がりくねった路地が迷路のように入り組んで、修之輔達はしだいに大通りからは離れて行く。けれど暗がりの内にぽっと明かりの灯る数軒の家屋があったり、料理屋がぽつんと暖簾をかけていたり、町の境がどこまでなのか、歩いているうちに分からなくなってくる。
そんな路地をいくつか曲がったその先。少し広くなった道で着流しに深く笠をかぶって歩く男とすれ違った。小林と石島は話に花を咲かせていて、男の風体には気付いていない。風体よりも男の気配に、修之輔は思わず振り向いた。なにか。どこかが。
「どうした、秋生」
足を止める修之輔に小林が気づいて、その声に石島も振り返った。修之輔の目線の先を察して、なんだ、と肩の力を抜く。
「あれは瓦版売りだ」
「瓦版売り?」
「そうか、羽代にはいなかったか。この辺りで起きたことを版木で刷って、その日のうちに売って歩く。品川ではちょっと珍しいが、市中に入れば腐るほどいるぞ」
「どんなものか、ためしに買ってみるか」
小林が懐を探っているうち、瓦版売りの姿は見えなくなった。残念がる小林を石島が呆れた目で見る。
「それにしても、お前ら、田舎者丸出しだな。飯盛り女だの、瓦版売りだの、講だの、見たことがないものにいちいち目を留め足を止めていたら、この見廻りの内に夜が明けるぞ」
どこか江戸勤番の余裕をみせる石島の言葉に、小林は頭を掻きながら、やっぱり田舎者かあ、と嘆息した。修之輔は瓦版売りが来た先、消えた先をもう一度確認した。
「秋生、行くぞ」
田舎者と言われた罰の悪さか、小林がいささか強めに修之輔の背を叩く。促されて後を追ったが、先程感じた違和感を消すことができなかった。
瓦版。修之輔は以前、弘紀に見せてもらったことがある。兄が送ってくれた、と弘紀が嬉しそうに何枚か畳の上に広げて、それらはそこそこの大きさのある紙だった。江戸や諸国で最近起きたことを簡単に刷っただけだが、集めれば物事の繋がりが見えてくる、と弘紀が云っていたことを思い出す。
「横浜に外国人向けの花街ができた事」
「高縄東禅寺で水戸浪士が暴れた事」
「西洋風の服装が旗本に流行っている事」
「禁中で毒殺未遂があったが神仏のご加護で毒入りを知って難を逃れた女官の事」
幾つかの出来事は連なっていて、けれどそれぞれが独自に起きた事件でもある。こういったことが頻繁に起きているなら、この世の中はどこか均衡を欠き始めているのではないか、あの時弘紀はそう呟いた。
そして先程、修之輔たちとすれ違った瓦版売りは、その手に何も持っていなかった。
瓦版売りならば、せめて売り物の瓦版二、三十枚は持っているのではないのか。店じまいなら無駄に風体を隠すあの扮装は解くものなのではないだろうか。そしてあの気配。違和感はあの男がほとんど足音を立てることなく歩き去ったことにも起因している。武芸か、舞芸か。いずれかに長じた者の足運びだった。
闇に気配を探っても、既に気配の痕跡は消え失せていた。
修之輔がその緊張を解くことができないまま、三人は路地を抜けて町はまた明るくなった。街道から折れた脇道だと石島が云う。とはいえ、一直線に伸びた通りは充分に広い。その先には大きな鳥居が見えた。
「ついでだ、お前らの様なお登りに江戸の町を見せてやろう」
石島がそういって、その広い通りを歩き出す。神社の参道になっているらしいこの通りは料理屋や茶屋の店先から客を引く女の声、芸人が道端で明かりをつけて見せる芸があちらこちらに、まるで祭りのような雰囲気だった。江戸はいつもこのような賑やかさなのだろうか。
「よし、上るぞ」
その参道の突き当り、大きな鳥居を潜った先は正面にそびえる石階段だった。急な階段を上ったその中ほどで、左側に黒く大きなかたまりが見えてきた。各自自分の提灯で辺りを照らし、そのかたまりが黒くてごつごつとした岩がいくつか寄せ集まったものだとわかった。
「これはな、この品川牛頭神社の富士塚よ。てっぺんまで上るから、足元に気をつけろよ」
よく見れば岩の塊に細く道が付いていて上に登れるようになっている。石島を先頭に、修之輔達はその岩を登る。途中、三合目とか四合目とか書かれた札は、富士のお山になぞられたものだろう。けれど実際の山とは違い、息が切れる前に頂上に着いた。眼下には夜の品川の海が広がる。
月明かり、星明りは夜空を仄かに光らせて、空と海とを分け隔てる。海と人との棲み場所を分け隔てるのは町の光。浜の縁に沿って明かりを零す料理屋の連なりが、海岸線の在り処を見る者に知らせる。
右手、彼方が羽代の方向で、左手、品川宿の次の明かりがもう江戸だ。三人ともがしばらく口も利かずに春の夜景に見惚れた。
足元の町から時を告げる鐘の音が聞こえてくる。
「そろそろ戻るか」
そう石島に促され、小林と修之輔は小さいながらも立派な富士の山の頂の下山口へと向かった。下りる道の方が急で一人ずつゆっくりと進まなければならない。しんがりの修之輔が小林の提灯の明かりが降りて行くのを待っていると、背に、何者かの気配を感じた。
提灯をその場に落として刀の柄に手を掛ける。暗がりの中からゆらりと、白い姿が現れた。
「おぬし、そんなに短気な奴だったか」
見知った者にかける口調の気軽さ。しかし僅かな月明かりで分かるのは行者の衣装を着ている何者かというだけで、顔は完全に闇に溶けている。
「此度の参勤、田崎は来なかったのか」
待っていたのに、そういって笑う相手の声を聞いて思い出した。
――走れよ、狂狼
昨年の秋、弘紀は刺客に襲われた。黒幕であった弘紀の兄英仁を田崎の命を受けて弑したのは修之輔だ。返り血を浴びた姿で馬に乗り、羽代城へ帰還する前、道端からこの声が修之輔を呼んだ。
「用事は何だ、とも聞かぬのか」
無言で刀の柄から手を離さない修之輔の様子を、相手は面白そうに眺める気配があった。
このくろさぎを名乗る人物が、弘紀の母親と何らかの関わりがあることを田崎との会話から修之輔は知っていた。
もし、弘紀に害意を持つものならば躊躇うことはない。排除するだけだ。それを判断するにはもう少し話をさせる必要がある。どうするか。鯉口を切ろうとする修之輔の思惑を読んだかのように白い影が一歩下がる。
「さて、黒河の狼。儂は今宵、昔からの知人に会いに来ただけだ。そなたとの思わぬ再会はここまでだな。江戸に入ったらまた会いに行く。巫女の血筋と共に待っておれ」
その言葉が終わらないうち、富士の下り道から提灯が上ってきた。
「秋生、どうした。提灯の火が消えたか」
降りてこない修之輔の様子を見に来た小林の声に、一瞬、気が逸れて、その間にくろさぎの姿は闇に消えた。
どうやら品川の狸に化かされたらしいぞ、と適当なことを云う小林と共に、富士の下で待つ石島と合流する。本陣に戻るにはちょうどいい頃合いで、今度は横道にそれることなくまっすぐ街道を歩いて本陣へ向かった。
途中、辺りが急に騒めいて、目線を上げると道の向こうから御用提灯を下げた一団がやってくるのが見えた。紋はカタバミ、騎乗した陣笠の者を先頭に、十数名が徒歩で従う。後方の者達は刀の他、銃も携帯している。路上の町民は急いで建物の中に入るかその場に平伏した。
「酒井様が来られた」
「何かあったのか」
「あったとしても、酒井様が来られたのならもう安心だ」
そんな声がひそひそと囁かれる中、その一行は、とある小さな料理屋の前で止まった。女が一人、店の中から転がり出てきて何かを訴えている。
その時、ひときわ大きな物音がして料理屋の二階の欄干を越えて、屋根伝いに逃げようとする影があった。が、すぐに足を止める。数人が既にその先の屋根で待ち構えていた。店の灯りが彼らが身に着ける羽織のカタバミ紋を浮き上がらせる。
表通りをきた一行は衆目を惹きつけるため。別動隊が既に行動をしていたようだ。
不意に轟音が夜空に響く。威嚇のために捕り方から発砲された銃弾が不審な輩の足元の瓦を砕いた。
屋根の上の不審者の他にも、料理屋の裏口から街角の闇に逃れようとした影には直ちに追手がかかって捕らえられ表へ引き出された。
「なぜ、逃げようとした」
「特に理由などございません」
男が抗弁するその声は、どこかわざとらしい響きがあった。言葉の抑揚にも独特の強弱がある。江戸の者ではない。余所者であることは間違いなかった。
「捕縛しろ」
抵抗する男を数人が囲んで拘束し、屋根上の者も捕まって、突然の捕り物はあっというまに収束した。
「いやはや、さすが酒井様だな」
遠目に眺めていた石島が嘆息する。
「酒井様とは何だ」
その小林の問いに石島が呆れた口調で返事する。
「庄内藩のご当主だろうが、知らないのか。幕府でご老中を務めている酒井様は今、京の都におられる将軍様の留守を守り、江戸の治安を一手に担っている」
そうはいっても地方の羽代藩の下士は世情に疎い。少しは江戸で勉強しろ、と石島にいわれ、小林が神妙な顔で頭を搔いた。
見廻りが終わって脇本陣に戻り、玄関脇に陣取る山崎に報告をした。小林と石島は玄関わきの宿直の小部屋に上がり込んで、もう少し話をしていくということだった。久しぶりに会った友人同士、積もる話もあるのだろう。修之輔は宛がわれた部屋に戻ってすぐに寝支度をし、寝具に潜り込んだ。
疲れを実感しているうちに、寝付きたかった。
華やかに見えてその奥に何かが蠢く江戸の町。得体のしれない者たちとの接触。カタバミ紋の集団。つい今までに起きた事よりも、修之輔の頭を占めるのは日中のあの任務だった。
息苦しいほどの蒸気の中のあの身体。触れたかった肌。そして渡したかった細工物。弘紀を想っていくつも浮かぶ感情を、逢えるように手配しておく、といった言葉を思い出して耐えてみる。
明日は日の出とともに出立して、いよいよ羽代藩の大名行列は霞ヶ関にほど近い朝永讃岐守上屋敷に入ることになる。
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