第1章 青嵐の予兆

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 開け放った襖をそのままに、ずかずかと遠慮なしに部屋に入ってきた外田(とだ)は、大柄な、いかにも力仕事を得意とする体躯の持ち主である。  がさつさを嫌う三山は、先輩相手であってもあからさまに眉をしかめて視線を逸らし、外田は外田で細かい事には気付かずに、自分の湯呑に茶を注いでいる木村に何か言いかけようとしたその手前、畳の上に正座して髪を結わえている修之輔の姿に目を止めた。だけでなく、近寄って側に座り込んだ。 「……秋生、もう一回、その髪を持ち上げる仕草をしてみてほしいのだが」  怪訝(けげん)な言葉に思わずその顔を見返すと、秋生のその仕草、やけに色っぽくないか、と怪訝にさらに輪をかけさせるような答えが返ってきた。 「なんすか、外田さん。秋生なんてもう見慣れていますでしょうに」  木村が呆れてそう云っても、外田はもう一回、と修之輔に手を合わせてまで頼んでくる。 「あれですね、確かに秋生殿は玲瓏玉の如しという言葉が似合う見目麗しさですが、やはり美しさには親しみやすさが重要かと思うのです、私なんかその案配がちょうどいいのではと思っていて、その辺りが西川様のお嬢様のお気に召したのではないかと思うにつけ、容貌というのも天からの授かりもので――」  勝手に話し出す三山のお喋りにまったく頓着することなく、こちらを覗き込んでくる外田は、修之輔にとって役目でも年齢でも上の立場であり、表立っての文句も言えない。修之輔は仕方なく、せっかく束ねていた髪をいったん下ろし、もう一度持ち上げ結い直す作業を繰り返した。  縛る場所は黒河でそうしていた時より少し上。そう見当をつけて、纏めた髪の根元を固く結わえた。剃刀(かみそり)で余分な紐を切り落としてから外田の様子を伺うと、外田の視線は既に木村が茶を注いでいる湯呑の方に向いていた。 「俺にも茶をくれ」 「外田さん、もう秋生はいいんですか」 「ああ、飽きた。途中で、そういや秋生は男だったな、と」 「最初からそうでしょうが。外田さんにそんなこと言われても秋生だって困るでしょうに」  木村が呆れた声音を隠さずに外田に云う。修之輔の文句をかわりに代弁してくれるのは有り難くもあるのだが、もう少し前に言って欲しかった気持ちもある。使わなかった残りの元結や使い終えた剃刀を纏めて片づけ、修之輔も茶の入った湯呑を木村から受け取った。  人の気持ちにどうも鈍い外田や三山とは違い、木村はどうやら修之輔の顔色を読んだらしく、座の気を逸らそうと別の話題を振ってきた。 「そういや最近、弘太(こうた)は来ているのか」  気軽な会話のつもりだろう、ちょっと前まではちょこちょこと顔を出していたのに最近見ないな、と、茶を飲みながら修之輔に尋ねてくる。 「忙しいらしい」 「なんだ、会っているのか」 「・・・・・・先日、朝早い時間に弘太が(まき)を運んでいるところに出くわした」  うっかり答えてしまってから、弘太という仮の名で呼ばれた弘紀のことを思い浮かべる。  この羽代藩の当主である弘紀は時折、と云うよりも頻繁に、使用人の着物を着て前髪を多めに下ろし、弘太と名乗って修之輔の住む三の丸に薪割りをしにやってくる。  弘紀は羽代の当主になる前に、事情があって隣の黒河藩に身を寄せていたことがあり、当時黒河で剣術道場の師範代をしていた修之輔は弘紀の身分を知らないまま、剣術を指導していた。  修之輔が羽代藩主の座に着いた弘紀に誘われて黒河を出、羽代藩に仕官してから八カ月以上が経っているが、使用人姿で修之輔に会いにくる弘紀は黒河にいた時とほとんど変わらない態度で接してくる。それは藩主という肩書より、むしろ十八歳という弘紀の実の年齢にふさわしいふるまいで、そんな態度でいるから木村の目に触れてもまさか藩主だとは気づかれないようだ。  けれど今、修之輔の頭の中に浮かんだのは、薪を割ったり運んだりしている使用人姿の弘紀ではなく、昨夜、修之輔の宿直当番の時、二の丸御殿の藩主私室に呼ばれて夜を共に過ごした弘紀の姿だった。最近忙しい、という言葉はその時、弘紀が自分の肩から落ちかける薄い単衣の襟を直しながら修之輔に伝えたものだった。 「江戸には先代の当主である兄がずっといるので、そちらは大丈夫なのですが、問題はこっちです」  肌を合わせる関係は、二人が黒河にいた時から続いている。  昨夜も弘紀を一度、抱いた後で、二人して(とこ)の上に起き上がり、肌に残る熱が冷めるまで羽代城崖下の岩礁に打ち付ける波の音を聞いていた。  修之輔の手で肌蹴(はだけ)られていた単衣の襟は直しても、差し出した帯の先を受け取らない弘紀はこの後にもまた修之輔を求めるつもりなのだろう。察して逸る心を抑え、今はこの会話を続けることが弘紀の望み、どんな問題があるのかを聞いてみた。 「兄は江戸で生まれたのですが、以降羽代の国許にほとんど戻ることがなく、ずっと江戸で生活をしていたので、参勤交代の実務を知る者が羽代にいないのです」  弘紀の兄は朝永家の江戸藩邸で生まれ育ち、当主となって初めて羽代の地に足を踏み入れたのも束の間、田舎の暮らしに馴染めずに江戸の暮らしが恋しいと、次の参勤を待たずに江戸へと直ぐに戻ってしまった。 「なので、正式に江戸に向かう参勤は、父が(おこな)った十数年前に遡ってしまうのです」  今は幕府の力が地方で行き届かなくなりつつあり、参勤に応じない諸大名も少なくない。それでも弘紀が現在の当主である朝永家は譜代大名でもあり、また弘紀自身の当主就任の報告がある手前、今年正式な参勤交代はしておいた方が間違いないだろう、という意見で家中は一致した。  意見が分裂しがちであったこれまでの羽代家中の事を思えば、皆が一致した結論に収束したのは喜ばしい変化である。だが、実際のところ参勤交代のその作法を詳しく知る者がいない。ならばいっそ、今の羽代の現状に沿った方法で新たな作法を作ってしまえと、家老の加納が張り切っているという。 「加納は倹約をもっとも重要な事柄として考える、と明言しているのですが、限度がありますし。格式という体面も守らなければならないでしょう。加納のやり過ぎを調整するのが私の最近の仕事です」  倹約も良いのですが、餅とか団子とか、道中の名物も食べてみたいのです、と真剣な顔で云う弘紀の様子に、迷走する会議の様子をつい想像してしまう。 「参勤の道中、いちばんの難所が初日の川越えで、そこで長雨にでも遭って足止めされるとせっかくの倹約が無駄になります。季節の移ろい、雲の動きや風の向きなど、昔の天候の記録と照らし合わせて、出立の日の調節をしてみたりもしています」  忙しくて大変です、という割に口調は弾んでいて、弘紀はそんな作業を楽しんでいるようだった。  修之輔の身分であれば家老が居並ぶ話し合いの場に出られる筈もなく、だがその事実は寂しさや嫉妬よりも、却って自分の任務を強く想起させられた。  番方の馬廻り役に就いている修之輔の任務は弘紀の参勤道中の護衛である。そしてそれは、弘紀の指揮のもとで家老達が考え抜いた日程をつつがなく遂行するための役職でもある。 「道中は、貴方がいれば、大丈夫ですね」  そんな修之輔の心の内を読んだように弘紀がそう華やかに微笑んで、上体を修之輔の胸に預けてきた。弘紀の帯の先は床に流れて置かれたまま、合わせた襟を抑えている手を離せば、緩やかに、襟が、袖が、肩からするりと落ちてくる。弘紀の腰に手を回してより近くに引き寄せると、互いの胸や腹の体温が、薄い布を通して触れ合った。 「弘紀の信頼に応えられるように働こう」 「ええ、信じていますから」  そう言って修之輔の腕の中、弘紀は体を捻って伸ばし、肩に手を掛け、こちらの首筋に唇を触れてきた。割れた裾から伸びる素足が修之輔の足に絡められて、体のどこもかしこも触れていたいという弘紀の口には出さない要求に、これでは身動きが取れないからと少々強引にその体ごと敷布の上に押し倒した。  荒っぽい仕草は弘紀の熱を煽るだけ、形良い眼に笑みを浮かべて、弘紀は仕返しとばかりに修之輔の単衣の帯を強く引いた。互いの衣は脱げかけて、触れ合う寸前の胸の素肌。弘紀は修之輔の腰の左側の触れて分かる傷跡に、指を這わせて撫で上げた。  前の冬、弘紀を庇って修之輔が負った腰の刀傷は消えない跡になっていて、周囲の皮膚とは違う感覚を修之輔にもたらす。 「貴方は私のもの」  首筋から肩へ、胸へと加えられる修之輔の愛撫とそれをなぞる口づけに、微かに震えて次第に湿りを増す息でそう囁きながら、弘紀はゆっくりと、何度も修之輔の傷跡を指でなぞる。傷に触れる弘紀の指先に、修之輔はその感覚が自らの快感を呼び起こすものであることを覚え込まされていく。  自分の感覚、自分の存在の全てを相手に委ねて、愉悦の深い淵に際に揺蕩う心地に、陶然となる。 「おっとお前ら、そろそろ出ないと山崎にどやされるぞ。俺はお前らを呼びに来たんだ」  ふいに外田が発した大声に、昨夜の弘紀との記憶をそれ以上思い出すことを阻まれた。 「外田さん、早くそれを言ってくださいよ、茶を飲んでる場合ではなかったでしょう」  木村が脱力しながら外田に文句を言う。 「訓練は大変ですねえ」  軍事訓練には呼ばれていない三山の、まるで他人事な見送りの言葉を背に聞きながら、修之輔達は慌ただしく部屋を出た。
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