第1章 青嵐の予兆

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「右だあ、右に行けと言っただろう!」  徒士組の指揮を執る山崎の大声に、明らかに苛立ちが含まれている。それに輪をかけて不機嫌な大声が集団の中から聞こえてきた。声音からすると外田のようだ。 「分からんわあ! お前の右は儂らにとって左だ。こっちが分かるように指示しろ!」 「儂が右と言ったら、おぬしらは左だあ! 儂が前と言ったら、おぬしらは後ろだあ!」 「さらに分からん!」  山崎と外田の怒鳴り合いの合間、慣れない訓練に戸惑う徒士兵の間にも混乱が広がっていく。 「そもそも右とはどっちだ」 「箸を持つ方だ」 「じゃあこっちか」 「お前は左で箸を持つのか」  もはや勝手な雑談も始まって収拾がつかない人の群れの一角から、ふいによく通る声が辺りに響いた。 「まずは前を見て、山崎のいうことをしっかり聞いてください!」  一瞬、喧騒が収まり、周囲の視線がその声の主へ集まる。 「何だお前、具足もつけずに、訓練する気があるのか」  そう苛立つ相手に凄まれたのは、羽代城の使用人の着物を着ている小柄な人影だった。 「見かけねえ奴だなあ」 「なんだ、その頭。髪がじゃまで前が見えないのじゃないのか」 「小僧はあっちへ行っていろ」 「小僧じゃない! 人の話を聞くだけの耳も持たないのか!」  小柄な体躯でも大の大人相手に一歩も引かず、むしろ命令口調のその人物の出現に、混乱していた現場はさらに余計な火種を抱えて、一触即発の雰囲気すら漂い始めた。 「あれ、弘太じゃないのか」  ただ集まって騒いでいるだけ、そろそろこの状況にもいい加減疲れてきた木村は、外田を宥めようと騒ぎの中に近づいて、見覚えのある姿が新たに始まった小競り合いの中心にいることに気がついた。 「どうした木村、あの小さいの、知っているのか」 「ああ外田さん、まあまあ知っているやつですね。なんかまずい雰囲気だから助けてやった方が良さそうだ」 「ん? そうなのか。じゃあ俺が手伝ってやる」 「いや、外田さんが絡むとさらに騒ぎが」  木村が外田を抑えようとしたが間に合わなかった。 「お前ら訓練中だぞ、そんな奴にいちいち構うな」  外田に怒鳴られて、案の定、弘太の周りを囲んでいた数人が苛立った表情で顔をこちらに向ける。 「おいおい外田、さっきまでお前がいちばん騒いでいたじゃないか」 「外田、今更何を言い出す。儂らに文句言う前に、お前、あの山崎をどうにかしてこい。いったい何がしたいのか、儂らが何をしたらいいのか、さっぱり分からん」 「俺に言うなよ、お前らが直接山崎に言えばいいだろう」 「さっきから山崎の姿も見えん、声だけがどこかからか聞こえてくる。そして何を言っているのか分からん。もうこの際だ、外田、お前が指揮をとれよ」 「それも有りかもな。山崎よりも俺の方が上手くやれそうだ」 「そうじゃなくて!」  話が思わぬ方へ転がりそうな流れに、再び弘太が叫んだ。途端、回りに詰める者全てから、ガキは黙っていろと怒鳴られて、だが怯むことなく弘太はまたそれに言い返す。途中からは双方に同調する者が増えて来て、木村が呆れて見ている間に、騒ぎはどんどん大きくなっていった。  徒士組の騒動は広場の隅にいる馬廻り組も気づいていた。耳鼻が鋭敏な馬達が人の苛立つ雰囲気を敏感に察して落ち着かなくなり、各自が自分の牽く馬を抑えようとしているその隙に、松風がいきなり後足立ちになった。  修之輔は残雪と松風を繋いでいた紐をすぐに外し、残雪から降りて松風の綱を取ったが、大人数の喧騒に興奮し始めた松風は口取りの綱だけではすでに御しきれなかった。修之輔は目線で馬廻り頭に許可を求め、松風を制御するために鞍に上がって短く手綱を取った。その瞬間、いきなり松風が騒ぎの渦中に向けて修之輔を乗せたまま走り出した。  一方、重臣の揃う幕中から隊列すらろくに整わない徒士組の様子を眺めていた田崎は眉を寄せた。 「あれではまったく形にならん。今この情勢で、ここまで統制のとれない軍というのも珍しい」 「弘紀様がいらっしゃるまでに間に合いそうですか。なんとか隊形だけでも整えろと山崎に強く命じたのですが」  田崎に声を掛けてきた加納は今年で三十二才、六十を目前にして近いうちの引退を表明した田崎の後を担う次の筆頭と目されている。家中で反目があったと噂されるこの二人のこと、遺恨なく権力の移行が進むよう、今日の訓練は二人が協力して催行するようにと弘紀が前もって命じていた。 「なに、さほど()く必要はない。弘紀様がこちらに来られるまで、時間にはまだ余裕がある」  言葉通りに焦る様子を微塵も見せない田崎が手近な座床几に腰を下ろした。加納は有能であっても田崎に比べれば実経験が乏しい。田崎の落ち着きようは却って加納の焦りを強めた。 「田崎殿、何か弘紀様に急なご用事でも。今日、この時刻からとお伝えしたはずですが」  まあ、加納殿も座ればいい、と傍らの座床几を示してから、田崎は加納の問いに応じた。 「用事というわけではなく、思い付きのようだったが」  その時、元々整ってもいない隊列がさらに秩序を失くし始めた様子に、加納が目敏く気が付いた。 「なにかあったのだろうか」 「何でしょうな。そういえばそこにある遠眼鏡、我らが自由に使って良いと弘紀様が申されておられた。加納殿、ありがたく使わせてもらったらどうか」 「田崎殿は」 「年のせいか近くは見えないが、遠くは良く見える。加納殿が使われればよい」  緋毛氈が敷かれた台の上にいくつか置かれた道具の一つ、螺鈿象嵌の細工が美しい遠眼鏡を田崎が重ねて指し示すと、加納は、では、といって手に取った。先ほどから下の者達に指示を伝える合間合間に遠眼鏡の方をちらちら見ていたので、気にはなっていたのだろう。早速遠眼鏡の筒先を広場に向けて様子を探り始めた。 「なんだ、歩兵の中に小柄でやけに元気の良いものがいる。勝手に中で指図をしようとしているようだ。あれが騒ぎの元凶か」 「で、しょうな」 「何とか纏めようとしているらしいが、混乱しか起きていない。誰か、あれを外に出さないと」  望遠鏡を下ろして人を呼び、指示を伝えようとする加納を田崎が制した。 「周りにいる馬廻り組が気づいたようだ、馬が一騎、騒ぎに向かった。儂らが指示する必要はなさそうですな」 「危ないから避けろ」 「うわあ、なんだいきなり」  広場の真ん中、走り込んでくる大きな動物の気配を感じ、騒めく人の群れが波が割れるように二つに分かれる。修之輔が暴走する松風をどうにか制御しようとしても鞍上で手綱を持つのに精一杯で、周囲に注意を呼び掛けながらもう一度強く手綱を引こうとしたその瞬間、いきなり松風が足を止めた。  勢い余って落馬しそうになり、目の前の(たてがみ)を強く掴む。なんとか耐えて顔を上げると、松風の鼻面の先、制止した正面に立つ小柄な人影が目に入った。  きょとん、と、こちらを見上げる使用人の着物を着た弘紀の姿。  松風が混乱に乱入した意図に思いを馳せる余裕はなかった。ふたたび弘紀が混乱に巻き込まれる前、修之輔は松風から下り、かわりに弘紀の手を取って自分の方へ引き寄せた。そのまま小柄なその体を鞍上(あんじょう)に押し上げ、松風の(くつわ)を直接引いて騒ぎの外へ、一人と一頭をまとめて早足に連れ出した。 「何もしないで見ているだけのつもりだったのです」  危ない所には迂闊に近寄るな、という修之輔の言葉に、弘紀が松風の上から答える。口調はいつも通りで、特に怒っていたり反省したりの様子は皆無だ。ほんとうに見るだけのつもりで近づいたらしく、一度思い立ったら行動をせずにはいられない弘紀らしい行動ではあったが、立場が立場だ。 「弘紀、少しここで待っていて欲しい」  三の丸の広場の外れまで弘紀を乗せたまま松風を牽いてきた修之輔は、馬上の弘紀に手綱を預けた。乗っているのが弘紀だと知っている松風は、さっきまでの興奮が嘘のようにおとなしく立ち止まっている。  修之輔が馬廻り組頭のところに走って戻ると、馬廻り頭は顔をしかめて松風に乗る弘紀の姿を顎で指した。 「あいつはいったいどこから紛れ込んだんだ。幸いまだ弘紀様はいらしていない。弘紀様が見える前に、秋生、あいつをどこかに放り投げて来い」  言い方はどうあれ、こちらの思惑通りではあったその指示に、わかりました、と修之輔は一礼し、涼しい顔で松風に騎乗したままの弘紀の側に戻って、改めて口取りの紐を引いた。  弘紀を乗せたまま、松風を牽いて三の丸から二の丸へ入る門をくぐると軍事訓練の直前のこの時間、格段に人目が少なくなる。二の丸御殿の手前で松風から降りたがる弘紀に手を貸すと、弘紀は地に足がつく前に修之輔に話しかけてきた。 「修之輔様、馬廻り組頭に、騎兵が徒士兵の中に入って山崎の指示を中継するよう伝えて下さい」  地に足が着く前だから、自然、修之輔が馬から下りる弘紀の体を抱き留めるかたちで、真摯な黒曜の瞳が間近にこちらを見据えてきた。二の丸までの間、ずっと無言だったのは、徒士兵を纏める方法を考えていたからのようだった。馬廻り組頭も徒士組の混乱は見ている。弘紀の指示を伝えて受け入れてもらうことはできそうだった。 「わかった」  修之輔が弘紀にそう返すと、地に着けた足をそのまま、少し背伸びして、弘紀は修之輔の首筋に頭を摺り寄せた。 「さっきから思っていたのですが、修之輔様のその髪、黒河にいた時のようですね。こっちのほうが貴方に似合っています」  その柔らかな声音が耳元に。修之輔は思わず弘紀の身体を抱き寄せようとして、だが弘紀は直ぐに躰を翻して二の丸御殿の方へ駆けて行った。後ろ姿を見送っていると、表玄関には向かわずに壁沿いを走っていた弘紀の姿が不意に見えなくなった。あの辺りにも御殿の中につながる藩主用の隠し通路があるのだろう。     弘紀の指示を馬廻り頭に伝えるべく急いで三の丸へと松風を牽いて戻る途中、弘紀と松風の仕草は、やはり、どこか似ている、そんな今の状況にはそぐわないことが頭に浮かんだ。
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