第1章 青嵐の予兆

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 修之輔と別れた弘紀が、練兵観覧の準備のため、二の丸御殿の奥に戻ると、私室では近習が既に着替えの支度をして待っていた。お仕着せ姿の弘紀の姿を見ても特に何か言うわけでもなく、弘紀がそれを脱いだ単衣の上から、次々に着替えの(きぬ)が着せられていく。  黒河で過ごしていた二年近くの年月の間に、弘紀は自分の身の回りのことはだいたい一人でできるようになっている。こんなに人手を掛けなくても着替えぐらいは自分ですると言いたいが、今日、身につける服はいつものものとは様子が違う。座って控えている奥の束ね役、滝沢に問うと、兵の閲覧は陣装束が通例です、と返ってきた。  筒袖の着物に裾が絞られた野袴。動きやすいかもしれないけれど、少し窮屈だ。  滝沢は弘紀の父である朝永弘明(ひろあき)が元服する前から小姓として仕えていた人物で、その弘明が急逝した後、弘紀の母である環姫と、弘明の妾との間に生じた争いをただひたすらに身を低くしてやり過ごし、奥向きの最低限の秩序を保とうと奮闘した。  彼の目から見るならば、田崎も加納もともに朝永家の秩序を乱す厄介者である。  当主の奥を権力争いに利用する表向きを苦々しく見ていた滝沢だが、弘紀はその争いの中でも揺るがなかった滝沢の視点が新たな藩政に必要だと直感的に考えた。なので、本来なら奥で弘紀の身辺の世話をする近習は二十歳前の年若いもので占められるところ、田崎よりも数歳年上の滝沢が仕切っている。  奥とはいっても弘紀は妻女を持っていないし、先代の羽代当主であった弘紀の兄、弘信(ひろのぶ)の正室は江戸にいる。だが江戸にいるはずのその弘信の正室は、弘信が家中の不祥事の責を問われて改易されると聞いて、さっさと朝永家の上屋敷を出て実家の下屋敷に移ってしまった。弘信は側室も持たなかったので羽代城の奥は空き部屋だらけ、主となるべき女性がいない状態が長いこと続いている。  先々代の頃までは、朝永家の江戸藩邸と羽代城の間で着物や高価な物品の行き来が頻繁にあったが、今はほとんどない。滝沢の下に就く近習数名が、朝永家伝来の宝物や残った物の埃払い、空いた部屋で書誌記録の整理など、倉庫番や書庫番のようなことをやっているだけである。 「弘紀様は身の回りのことをほとんど自分でなさるのは有り難いのですが、勝手に着替えてお一人で御殿を抜け出すのは如何なものでしょうか」  滝沢は時折、田崎に似た小言を寄越してくる。だがそろそろ諦めの境地のようで次第に頻度は少なくなっており、近いうちに言っても無駄なその小言を滝沢は言わなくなるのでは、と、弘紀はひそかに期待している。  滝沢の指示の下、弘紀の左肩に弓籠手と左手に弓懸け、足には脚絆が次々に付けられて、次第に体が重くなってくる。この上から鎧兜を置かれたらと弘紀は不安になったが、最後に寄越されたのは陣羽織だった。  左右前身ごろと背に朝永家の家紋、違い鷹羽が明るい橙色の色糸で縫い取られた白銀綸子の陣羽織。布は美しいが、見覚えのある父の物より素っ気無い気がした。弘紀の顔色を見て滝沢が云う。 「本日お召しいただくそれは正式なものではございません。朝永家のご当主がお召しになる本来の陣羽織は江戸屋敷にご用意してございます。国元では質素倹約が御公約ですから、今、手にされているそちらを、諸侯の目がある江戸では、江戸屋敷で用意している物をお召しください」 「わかった」  頷いてから胸の内、ちょと首を傾げる。自分で云い出した倹約だが、はたしてこれは適切な運用なのだろうか。  そんな疑問は今はさておき、手際よく着替えを終わらせた弘紀は滝沢と近習の中小姓に付き添われて三の丸へ向かった。城の内部なのに仰々しく前後に長い行列に、さっきまで一緒にいた修之輔と松風だけで十分なのに、と思う。  倹約という括りでこっちもどうにかならないだろうか。さっきの疑問と合わせて後で考えてみよう。  前触れによる当主到着を知らせるこれも仰々しい発声の後、三の丸に張られた幔幕(まんまく)の中に入ると既に揃っている家臣たちが略礼で弘紀を迎えた。座床几に腰を下ろす前、隣席の田崎に小声で訊いた。 「田崎、秋生にまた何か云ったのか」 「言うことを聞かない時は担いで走ることができるぐらいに腕の力を鍛えておいた方が良い、とは言いましたが、そのことでしょうか」  さっき、修之輔に軽々と松風の鞍上に押し上げられたことを思い出した。 「勝手に秋生に命令をするな。髪の結い方についても何か云っただろう」 「直接の命令はしていません。助言です」 「田崎の立場なら、それは命令と変わらない」  小声で交わした田崎との会話はそこで止め、言上の機会を今かと待っている様子の加納に、頼む、と促すと、早速加納は報告し始めた。 「徒士組(かちぐみ)の現在の状態ですが、少々隊形が整わない状況が続いていたところ、先程その原因が取り除かれて、今は何とか練兵訓練を行える程度には整っております」 「そうか」  加納が云う騒ぎの原因が自分だったことを弘紀は自覚していて、だが素知らぬ顔で聞き流した。  今、弘紀が座る正面の徒士組の隊列には、馬廻り組の騎馬が一定間隔を置いて中に入っている。さっき修之輔に頼んだ指示が上手く伝わったようだった。隊列の最前列で指揮を執る山崎の言葉が、騎馬からの中継で隅々にまで行きわたり、歩兵はようやく同じ動きが取れるようになってきた。 「なにが問題か分かりましたか」  弘紀が徒士組の中に紛れ込んだことを知っている田崎が、こちらも素知らぬ顔で質問を寄越した。 「現場をまとめる者達に練兵の知識がない。参勤に従う者達の中から何名か選び、江戸で練兵について修学の機会を与えようと思う」 「ならば今この時期の参勤は、ちょうど時宜に叶ったものとなりそうですな」  その田崎の言葉に軽く頷いて肯定を示し、弘紀はすぐに加納の名を呼んだ。 「加納、鉄砲隊も編成するのだろう。この間の確認でこの城には何丁の銃があったのか」 「形だけでしたら二十、実際に使える物は十二程です。ただ、銃を充分に扱える者はそれより少ないかと」 「銃の形式は」 「二十年前に先々代が作らせた新式の種子島です」 「種子島」  弘紀は思わず空を仰いだ。既に目を通していた持参道具の目録には、長銃としか書いていなかった。火縄銃か洋銃かの区別は確かに、記載されていなかった。 「当時の新式ですので現在は多少古くなってはいますが、その分装飾が美しく、参勤の行列での見栄えには問題がないかと思います」 「新式だろうが旧式だろうが同じだ。種子島など時代遅れも甚だしい。行列には入れられない」  時代遅れの田舎者。それは参勤に出向いた地方の大名が恐れる、最も不名誉な評価だ。 「種子島しかないのか。洋銃は一つもなかったのか」 「あいにく羽代城に洋銃の備えはありません。新たに洋銃を手に入れるには本来、幕府への届け出が必要です。以前からお伝えしていますが、この度の参勤、弘紀様には城府での交渉を是非お願いいたしたく」 「分かっている」  既にそのことについて準備が進んでいるのは把握していた。江戸上屋敷と段取りをつけているのは加納自身で、改めて弘紀に確認をしたということなのだが、それにしても洋銃が一つも城中にないのは予想外だった。 「加納、種子島には銃袋を被せて行列に置くように。なんだったら空の銃筒の方が軽くて持ち運びやすいかもしれない」  加納は弘紀の自嘲気味なその言葉には答えずに、お願いします、とまた頭を下げた。  自分が江戸でやるべき仕事の一つ。胸の内で確認する。  そして田崎に聞いておきたいことがあった。 「田崎、先日の龍景寺訪問の帰りに私を襲った者達が使っていたのは」 「洋銃です」 「拾ったか」 「はい。全て」 「何丁あった、形式は」 「今も使える物なら十丁で、全てゲベール銃でした。ゲベール銃は今、多くの国で導入されていますが、エンフィールド銃やスナイデル銃に比べると精度も射程距離も大幅に劣ります」  田崎はこういうところに抜かりがない。所持を公にはできないが、使える洋銃があることに少なからず安堵を覚えたが、充分には至らない装備であることに変わりはない。 「他国は洋銃をどこから手に入れている」 「自国で西洋の物を模して生産しているのが主です。技術を持たない国は佐賀が製造している物を買い求めたり、幕府と取引のあるフランス、アメリカの商人から手に入れていて、他は薩摩を介してイギリスの商人から手に入れているようですがこれは多分に公にできない取引を含んでいます」 「幕府と取引のある商人なら、取引の内容はすべて幕府に漏れていると考えた方が無難か。あとは薩摩、か。武器の取引をするには少々厄介な相手かな」  話の成り行きを聞いていた加納が口を挟んだ。 「弘紀様自らが危うい取引に動くのはおやめ下さい。薩摩は現在、幕府から強く監視されています。朝永当主の座も盤石ではない現在、上から目をつけられるような行いは得策ではございません」  加納が云う様に、現在の弘紀は仮置きの当主という状況である。正式な任命への交渉も江戸での仕事で、こちらの方が洋銃の輸入の許可より難しい。しかも今、将軍は京の都にいて江戸城には不在である。どこまで話を進めることができるか。 「出立までに何か策を考えておこう。それから江戸でのことはともかく、羽代に私がいない間の事は田崎に任せてある。仕事にまだ慣れていない者達の世話と、それからこの三の丸だけでなく、二の丸の整備についても参勤の間に形にしておくように」 「はい、今のところ万事とどこおりなく。加納殿の弟にも充分に働いてもらうつもりです」  弘紀が江戸参勤の間、羽代の留守を守る田崎の下に、この春から加納の弟が新たに加わっている。羽代家中で権勢を二部する二人が江戸と羽代に分かれることによって、再び、家中の分裂を引き起こさせないための弘紀の計らいだった。  弘紀が江戸に滞在するのはおよそ百日間。その間にするべきことは、江戸でも羽代でもたくさんあった。  頭を整理するには、雑な徒士兵の動きは目に入るだけで邪魔になる。けれど、当主としては長時間、兵の訓練から視線を外すわけにはいかない。  視線を広場の隅から隅へ、なんとか同じ方向に行進している徒歩組を流し見しながら、中に紛れている数騎の騎馬を確認する。額に白い模様のある栗毛の馬。残雪に乗っているのは、さっき会ったばかりの修之輔だ。  修之輔の背はどちらかといえば高い方なのに、それを感じさせないのは常に整った姿勢のせいだ。一朝一夕で得たものでなく、剣術で長年鍛えられた無駄のない体の動きは、一つ一つの所作があまりにも自然なため目障りになることがなく、却って周囲に埋没し目立つことがない。  だが、その所作は目だたなくても、修之輔の端麗な容貌は遠目にも分かる。  一筋の筆で描いたような鼻梁の線、奥二重の瞼が瞳に差す影は、冷たくなりがちな切れ長の眦に甘さを与えて、薄めの唇は形良く血の色を映す。癖が無くても柔らかな髪は一つに束ねられて、日の光の下ではときおり褐色の色を透く。  整いすぎて何を考えているのか表情を読めない、などと周りから言われることもあるけれど、修之輔が弘紀を見る目はいつも優しく、互いに目を見交わすほんの一瞬、それだけでも自分の心は充ちる。  弘紀は修之輔の姿を目で追った。羽代に来てから乗馬を憶えたとは思えないほど、修之輔は馬を操れるようになっている。  剣術もそうだが、修之輔は細やかに体の部分を使う術に長けている。足首、膝、肩、肘、そして指。  それらが緻密に制御されているからこそ、巧みな剣捌きが可能なのであり、また乗馬の巧みさにもつながっている。そこまで思ってから、弘紀はさっき、修之輔に松風の上に抱え上げられたときの感触を思い出した。  強く、けれどこちらを傷つけないように細心の注意でこの腕と体を掴んだ指。  あの指。  昨夜、修之輔があの指で自分に触れた感触が甦る。そして、自分があの指でいかされた回数を思い出す。  一度目はただ渇く欲求を満たすため互いがほとんど同時に果てて、二度目は焦らされて、追い詰められて、自分一人が昂ぶって。修之輔の高まりをすべて体の中に受け入れた瞬間に、弘紀は耐えられずに放っていた。そのまま修之輔のそれは自分の体内から抜かれることなく、揺すられて、良いところを何度も突かれて。  頸、背中、腹。体の表面のいたるところにあの指が触れていった。耳、瞼、胸の小さな突起。唇でなぞり舌で舐められる。弘紀の口腔の中にあの指が差し入れられて、掻き回された。指の動きを舌で追おうとして、途端、後孔を強く突かれて思わずあの指を強く噛んだ。  息が詰まる。  次に逢えるのは五日後。修之輔が宿直の当番に当たる夜。  五日間も逢えなくて、あの人は平気なのだろうか。昨夜、逢って肌を重ねて、さっきも会って言葉を交わしたばかり。でも。  ……自分は平気ではないから、また明日か明後日、使用人の服を着て会いに行こう。  知らず自分の唇に触れたのは、昨夜の記憶をなぞろうとしたからで、けれど弘紀の指先までを覆う弓懸けは、あの指よりも、昨夜何度も重ねた唇よりも、硬かった。
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