第7章 漆黒の神域

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 羽代へ向けて江戸を発つ日は、朝から良い天気だった。  日が昇って間もない空は薄青色に広がり、江戸湾の上、彼方に白く雲が見える程度である。木々の息吹が空気に混じって漂い、江都はいっそう夏の気配を増していた。  修之輔は長屋塀の部屋を出て、戸口の前に立つ楠の幹に手を触れた。目の前の黒板塀の隠し戸の上には御殿の屋根が見えるが、その中に主はいない。弘紀は既に、御殿の表玄関近くにいるはずだった。穏やかな風に鳴る楠の葉の音が出立を促すように聞こえて、おおよそ百日間を過ごした長屋の部屋を後にした。  羽代に持ち帰る自分の荷物一つを持って修之輔が御殿の前庭に行くと、そこには山崎や外田の姿があった。江戸在勤中に功労があった者が前庭に呼ばれており、他の下士たちは門の外で待機している。門番の肩越しに中を覗き込んでいるのは小林の顔だった。  白砂利の上に座る山崎たちと並ぶように指示されて外田の横に座ったが、目に映った光景に何処か違和感を覚えて、思わず外田と山崎の姿を見なおした。旅笠を肩に背負い、袴は軽く股立ちを取って歩きやすくしてある。行きよりも身に着いた旅装姿のその右の腰、そこにぶら下がっている物が違和感の正体だった。  それはどうみても朝鮮人参だった。昨日、修之輔が下屋敷で掘った、あの人参と同じ物のようにしか見えない。そういえば牛の引く荷車であの人参は上屋敷に運ばれている筈だった。  修之輔の視線に気づいた外田がにやりと笑う。 「土産だ。子種が無いと言われていた先代様に御子ができたそうじゃないか。下屋敷で採れた朝鮮人参の効用に我らも与ろうと思ってな」  先代を揶揄する無礼にはならないかと気に掛かったが、下士に朝鮮人参を分け与えること自体、当の弘信が言い出したことらしい。  弘紀に土岐の懐妊を告げて、その子の行く末が保障されたことが余程嬉しかったのだろう。あの時修之輔が懸命に掘り出した朝鮮人参だが、良く見れば門の外の小林の腰にも下がっているし、他の者達もそれぞれが体のどこかにぶら下げている。 「暑さに腐れることがあるから風通し良く、むしろ日に当てて水気を飛ばしたほうが長持ちすると弘信さまから御助言もあった」  山崎がそう云いながら自分の腰に下がる人参を揺すった。その山崎の向こうには江戸勤番だった石島の姿もある。ここ三、四年ほど江戸に在勤していた石島だが、今回、羽代に戻ることになったという。  弘紀は参勤を終えて江戸を発つに当たり、江戸勤番の者達にも羽代への帰国を推奨した。江戸で家族を持った者達は簡単には動けないが、羽代に家族を残している者のほとんどがこの機会に共に羽代へ戻ることになった。 「他のお屋敷ではどんどん人が減っているから儂もそろそろだとは思っていた」 「石島を連れて帰ることになるとは思わなかったな。行きよりも道中、楽しくやれそうだ」  変わらない外田の軽口を山崎が横目で睨んで諌める光景は、江戸の滞在中に馴染みになったものだった。 「外田は行列の後方だ。石島は前方だ。持ち場を守って歩くように」 「山崎、うるさ方の加納様はもう江戸を発ったと聞いたぞ。もっと気楽に行こうじゃないか」  行きは参勤行列に入っていた家老の加納だが、今日は夜明け前に江戸を発ったという。その行列にも羽代の藩士を随行させたため、結局、弘紀の大名行列は行きと人数がほとんど変わらない。  行列の人数の変化より、昨夜、目の前で弘紀に蹴り飛ばされた加納と顔を合わせる気まずさが勝っている修之輔にとっても、加納が行列にいないことは有難い事だった。  先触れの声と共に朝永の交代行列は上屋敷を出た。  行列の先頭近くには来た時と同じように飾られた残雪が牽かれている。松風を牽く修之輔は、これも来た時と同様に行列の後方へと配置された。  着物の所々から人参をはみ出させた羽代家中の行列は品川へと向かって粛々と移動する。あの雨の降る夜に走った道も、岩見に連れ込まれた空き家も行列の道筋近くにあったはずだが、それらの記憶は夏の青い空の下では遠いものだった。  薩州蔵屋敷の手前に広がる砂浜は青い夏の海とその水面に浮かぶ何隻もの洋船を見物に来た行楽客で賑わっている。そういえば昨夜は十四夜だったかと、どこか祭り騒ぎの余韻が残る砂浜を見て思い当たる。  品川宿を出て神奈川宿に着いたのは午を半刻も過ぎないうちだった。弘紀を含めて羽代の上位の家臣が陣屋に入るのを見届けた後、休憩を取る下士たちを山崎が集めた。 「さて、これから我らは東海道を離れて南下し、浦賀に向かう。浦賀からは船で羽代に向かうことになるが、我ら羽代の家中に船に弱いという者はまさかいないだろうな」  思っても見なかった行程に聞いた皆がざわついた。 「船か」 「羽代のあの船に乗って帰ることができるのなら、かなり早く羽代に着くことができるのではないか」  騒ぐ面々を見回して山崎が云う。 「弘紀様が横須賀や浦賀で是非見ておきたいものがある、と希望されての帰路の変更だ。今日これから横須賀に向かい、そこでもう一度休憩を取ってから半刻ほどで浦賀に着く。浦賀の警備陣屋を借りて一晩泊まり、出航は浦賀港、明日の日の出とともになる。船上で二泊、三日目の午後には羽代に到着する」  歩くよりも運んでもらう方が楽、しかも陸路より早く羽代に着くとあって喜ぶ者が多い反面、ちょっと残念そうな顔も見えた。 「富士のお山の裾野を歩くのはなかなか爽快なものだったが」 「箱根の関もこちらから登れば少々傾斜が楽だとも聞く」  山崎はそんな声を聞きつけたらしい。 「もし陸路を希望するなら、少々足を早めて先に東海道を進んでいる加納様に合流するように。藩士単独での行動は認めん」  昼の休憩の間中、話題は帰国の航路について持ちきりだった。  修之輔が外田たちの話を聞くともなしに聞いていると、警備上の理由でこの行程については機密にされていたらしいと分かった。  東海道は今、そこを通る外国人との間に揉め事が頻発しており、また徳川に従う譜代大名の命を狙う輩まで出没する。一方で、参勤を終えた他の大名もこの時期に集中して東海道を使うため十分な警備を行えないということもあり、前もって弘紀は帰路に船を使う許可を江城に取り付けていたという。  陸路で帰国するという希望を山崎に伝えた数人が、直ぐに加納の一行に合流すべく東海道を西に向かったが、ほとんどの藩士たちが浦賀に向かうことになった。  弘紀が航路を望んだのなら修之輔は何も迷うことは無く、外田や小林たちはまだ乗ったことのない羽代の船に乗れるとあって、こちらも全く迷いなく航路を選んだ。元から賑やかな彼らの中に江戸勤番だった石島たちが加わって、船旅に逸る気持ちそのまま、羽代の一行は予定よりも早く横須賀の地に到着した。  七月上旬は一年の中でも特に日が長い。  休憩を命じられた横須賀の浜辺で修之輔が松風に水を飲ませていると、用人に呼ばれた。 「弘紀様が松風をお召しだ。牽いて参れ」  徒歩の藩士たちが休んでいる間、弘紀は建設が始まっている幕府の造船場を見に行くという。近場なので少人数での行動でよい、と弘紀からの指示があり、修之輔が護衛と松風の口取りを兼ねて呼ばれたという経緯らしい。おそらく弘紀は名指しで修之輔を呼び出したのだろうが、用人が当たり障りのない理由をつけたのだろう。 「大きい工場になりそうです。ここは再来年に始業する予定だと聞きました」  修之輔の推測は当たっていて、松風の口取りを修之輔に託したまま弘紀が鞍上から修之輔に話し掛けてきた。迂闊に返事をするわけにもいかず、修之輔は目線だけ弘紀に向ける。 「掘った土の中から大きな獣の骨が出てきたそうです。竜の骨ではないか、などと言われたみたいですが、どうも牛馬のそれに似ているとか」  弘紀の瞳が好奇心に輝いている。未だ形になっていない造船所より、その獣の骨の方が弘紀の興味を惹いたようだ。 「牛馬に似ている、ということは、足の骨でも出たのでしょうか」  思わず修之輔がした質問に、弘紀が楽しそうに返事を寄越す。 「足の骨だけなら何の獣か分からなくても、頭の骨が出れば、それが牛なのか馬なのか、ほんとうに竜なのか、分かりますよね」  自分もちょっと掘ってみたい、と松風から下りようとする弘紀を制しようとして、ふいに街道の背後から早馬が掛けてくる音に気付いた。公用の印をつけた早馬は止まることなく道の先、浦賀に向かって走り去った。 「江戸で何かあったのでしょうか」  弘紀が首をかしげて、けれどその場ではそれ以上の話題にはならなかった。  その早馬が運んだ知らせの内容を知ったのは、羽代の一行が浦賀に着いた時だった。  今夜の寝場所に宛がわれた浦賀の陣屋に向かう前、修之輔一人が浦賀奉行所から寄越された役人に呼び出された。  弘紀を含む羽代の重臣が泊まる本陣の玄関わきの座敷でしばらく待つと、役人の他、下士一人に奉行所の役人の相手をさせるわけにいかないということで羽代の用人がやってきて修之輔の脇に付いた。  役人は端的に、江戸の奉行所からの諮問だ、と用事の内容を告げた。 「今朝早く、角筈の十二社で酒井様の配下の者が死んでいるのが見つかった。他殺らしい。近辺で羽代下屋敷に出入りする秋生という者の姿を見たという証言があったというが、身に覚えがあるか、それを聞きたい」  そういえば昨夜のことだったと他人事のように思い、どう答えるか迷っているうちに、脇にいる用人がそれを修之輔の緊張と取ったのか、代わりに役人に質問をした。 「昨夜は江戸出立の準備のため、秋生を含む羽代の下士たちは皆、なんらかの作業に駆り出されていた。いったい何刻あたりに秋生らしき者の姿が見られたのか」 「戌の刻を過ぎて、四つの鐘の前だとここに書いてある」  奉行所の役人はこの取調べにあまり乗り気ではないらしい。目の前の海防に日夜神経を使っているので、このような江戸市中の揉め事を持ち込まれても迷惑なのだろう。その時間、自分はどこにいたのか、修之輔が思い至る前に用人が立ち上がった。 「しばし待たれい」  座敷に役人と二人残されて沈黙のまま、自分があの時、五つの鐘を聞いたことを思い出した。時間がずれている。もしやその目撃の証言は情報をかく乱するため加ヶ里たちが介入したものかもしれない。 ――後始末は任せなさい  そう云って闇の中で笑んだ加ヶ里の紅唇を思い出す。  間もなく、座敷の襖が開けられて用人が戻ってきた。手には綴じられた書物を持っている。 「昨夜、当該時刻の秋生の記録がここに記されている」  そう云って、羽代の用人は役人に書物を手渡した。 「では、確かめさせてもらう」  たかだか下士一人、昨夜の行動が記されているとしたら、門番による屋敷の出入りの記録だけのはずだ。だが修之輔も見慣れているぶ厚いそれと、今役人が開いている書物は別物だった。いったい何の記録かと当の修之輔本人が訝しむうちに、厳しかった役人の顔がなんとも言えない表情に変わっていった。 「いや、まあ、そのような事情があったなら」 「そのような事情のため、お尋ねの時刻に秋生は上屋敷御殿におりました。ご覧いただいたのなら、その書物、速やかにお戻し願いたい。今ちょうど弘紀様がそれをお読みになられていたところを無理にお借りしてきたのだ」  役人の手から返された書物を受け取った用人は淡々とそう告げて、また座敷を出ていった。弘紀に返しに行くのだろうが、いったいあれは何だろう。そう思っているうちに役人の方が居心地悪そうに立ち上がった。用人が戻るのを待つことなく、これで奉行所へ戻るという。  修之輔一人が役人を門前まで送ると、役人はしげしげと修之輔の姿を見た後で呟いた。 「まさかご当主の伽の記録を出されるとは。この年になるまでこんな経験は一度もなかったぞ」
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