第7章 漆黒の神域

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 翌日、夜明け前の浦賀港の岸壁には江戸の中屋敷から着いた船一艘と羽代から寄越された船二艘がすでに舫っていた。見覚えのある中屋敷の船はともかく他の二艘はどちらも中型の弁財船で、いつもは茶葉を上方と江戸へ運ぶために稼働させているものだった。  そしてあと一艘。  修之輔は視線を上げてこれから自分が乗る羽代当主の御座船を眺めた。  一千石を積載できるといわれる大きさのその船は、弘紀が参勤交代の前からこの地の船大工に作らせていた物だった。大きなその船を、奥行きはあっても幅の狭い浦賀の湊に係留しておくことはできず、仕上がってから今日までの五日ほど、浦賀の港の外に浮かんでいたという。  船への荷物の積み込みは人足によって昨夜のうちに済んでいて、後は弘紀を含む羽代家中の一行が乗り込むだけとなっている。 「秋生、自分の持ち場に向かう前に馬を弁財船に入れてくれ」  陣屋を出る前、修之輔は山崎にそう指示されていた。  中型の弁財船に乗り込む下士たちと共に修之輔は松風と残雪を船の底へと牽き入れた。松風は当初警戒する様子を見せたが、気にせず船中の馬房に入る残雪を見て自ら船底に下りてくれた。  馬の扱いを船子に頼んだ後すぐに弁財船を出ると、丁度弘紀が駕籠から下りているところだった。弘紀は浦賀奉行所が出した簡素な屋形様の船で港の外の御座船まで向かうことになっており、航海中、弘紀の護衛を任じられた修之輔もここから同行する。 「よぉし、船を出すぞ」 「おう」  勇ましい船子たちの掛け声が朝焼けの空に響いて、奉行所の船と羽代の弁財船が岸を離れた。風がない港の中は船子の櫂で船は進んで行く。朝焼けの空は橙色が増して、海のあちこちで跳ねる(ぼら)が水しぶきを上げていた。  弘紀が上座に座る屋形の中には羽代の重臣の姿もあった。江戸を去ることを惜しんでいたという西川氏も、日の出間近の浦賀の海の絶景を見て機嫌よく目を細めている。 「儂は江戸の町中を行ったり来たりしておって何も面白いところを見に行くこともなかったが、この景色は羽代の海に勝るとも劣らぬ絶景だな」 「西川様ほど遊び慣れたお方が江戸では仕事一筋だったとは、これは羽代に着いたら早速奥方に進言しておきましょう」  調子よく西川氏の話し相手になっているのは、江戸勤番を離れて数年ぶりに羽代に戻る江戸家老で、参勤中に行動を共にすることが多かったせいか打ち砕けた仲になったようだ。  弘紀はそんな家臣の会話を聞いてはいるようだが、目は開けられた障子窓の向こう、近づいてきた御座船へと向けられている。  御座船は、近づけばさらにその巨大さに圧倒される。全長は百尺に迫り、帆柱も九十尺は優にある。海面からの高さは江戸の町屋の二階よりも高い。帆はまだ上げられていないが、直ぐに全容を目にすることはできるだろう。  その船の大きさは、見る者の心を知らず、高揚させるだけの迫力があった。  弘紀たちが御座船に乗り移ると奉行所の船は速やかに陸へと戻り、海上には御座船と中型の弁財船三隻からなる羽代の船団が残された。全ての船を統括する船頭が弘紀に挨拶を済ませた後、すぐに帆が張られ始めた。  浦賀の港の背後に沿う低い山々の稜線から朝日が昇り、二十八反の大きな帆が真白く光る。それぞれの弁財船でも帆柱一杯に上げられた帆は、吹き始めた海風を受けて大きく膨らんだ。碇が甲板に上げられた軽い衝撃の後、御座船を中心に船はゆっくりと海面を走り始めた。 「もう少し外海に出るまで皆様方は内の方へいらしてください」  日が昇って風の向きが安定するまでは帆の扱いには慎重さを要する。甲板で忙しなく走り回る船子の邪魔になってはならないと、船頭、船子以外の者は無難な場所へと追いやられた。  千石級の弁財船を改造した羽代の御座船は、本来なら当主のために備えられているはずの屋形が無い。そのかわり底の船倉が広く取られていて、行きでは陣屋に張られた幔幕が船倉の壁面に張り巡らされている。浅葱の地に朝永家の違い鷹羽が白く染め抜かれた幔幕の中に畳一枚の上座が設えられて、そこが当主である弘紀の居場所になっていた。 「羽代の港に近づくまでは、各自、自由にしていればいい」  そんな弘紀の一言で、幔幕の内側では正座をしていた家臣の面々は、思い思いに外に出て船倉から空を見上げたり、船子の動きを眺めたりし始める。やがて小刻みな船の揺動が無くなり、外洋のうねりが船底からも感じられるようになったころ、船頭が船倉に下りてきて低頭した。 「これから帆の上げ下ろしはございません。日暮れ前には伊豆の向こう側に回り込めるでしょう。駿河灘は明日、日が開けてからひと息に渡り切ります」  船頭がその場を下がってから、いちばん先に動いたのは弘紀だった。 「甲板に上がる」  そう云って畳の上に置かれた座布団から立ちあがり、すたすたと真っすぐ階段へと向かった。舟の揺れに足を取られる近習が弘紀に追いつくその前に、階段の脇を守っていた修之輔に弘紀が声をかけてきた。 「秋生、ついて来い」  言われなくてもそのつもりで、先を行く弘紀の背中を見ながら階段を上がると、弘紀は甲板に頭を出した途端、強い海風に体の均衡を崩した。修之輔は後ろから手を伸ばして弘紀の体を支え、そのまま甲板まで抱えて上げる。甲板に足を下ろした弘紀は、それが当然というように修之輔に笑みを向けた。  船は波を白く割りながら海を奔っている。陸地は見えても彼方に遠い。まだ東の空を上る途中、朝の気配が残る太陽が海の青さを深くする。  生まれて初めて海上を行く船に乗った修之輔は、自分の周りが全て海、という目の前の光景に胸の高鳴りを覚えていた。どんな広い川とも違う、遮るものは何もなく、往く方に広がるのは青い海原のみ。  どこにでも行ける自由。  身の内に満ちてくる感情の赴くままに傍らに立つ弘紀を見ると、弘紀がこちらを見上げて微笑んでいた。 「とても気持ち良いですよね、船で海を渡るのは」  目を見交わして、二人ともに同じ感覚を共有していることを確かめて、またしばらく海を眺めた。 「さて、そろそろ」  弘紀がそう云って手すりから手を離し、甲板を歩き始めた。船首へ向かうのかと思ったが、その足は船尾の方へ向けられている。船の動揺を気にせずに軽々歩く弘紀の後ろを修之輔は時折揺れに足を取られながら追った。  弘紀が足を止めた船の最後尾、そこには羽代の旗が建てられていた。だが通常の長方形のものではなく、三角形の頂点が折られた、いわば台形の形をしている。藩の旗にしては奇妙な形をしたその布を弘紀は興味深そうに眺めた後、近くの船子に声をかけた。 「どうだろう、やはりこれが有った方が安定しているのだろうか」  船子は一、二度、目をしばたかせてから弘紀がこの船の持ち主であることに気づいたらしく、急いでその場にひれ伏した。 「はあ、これから速度を上げてからの方が分かりやすいと思いますが、船首が安定しているのは確かです」 「そうか」  頷く弘紀は満足そうだ。今は使ってないみたいだから、と、弘紀が修之輔に旗に触れるよう促してくる。距離の近い仕草に回りの目を気にしたが、羽代の者しか船にはいないということもあって、少し離れたところに近習が一人がいるだけだった。  弘紀に促されるままその旗に触れてみると、帆と同じ、硬い木綿の素材だった。 「本当はここに帆を張ることは幕府に禁じられているのですが、羽代の旗ということでごまかしています」 「江戸の海の弁財船は大きな帆一枚だけで動いていたと思うが」  藩の旗に偽装したこの帆は何の役に立つのだろう。そんな修之輔の疑問に、弘紀が楽しそうに答えて寄越した。 「西洋の船についているスパンカーという小さな帆を擬したものです。この小さな帆で船の後ろに流れてくる風の動きを調整することによって、船首のブレが減じるのです。西洋の船には必ず付いているのに弁財船にはないので、試しに付けてみました」  風がもっと強くなるのが楽しみです、と弘紀が笑んで、そして、と付け加えて笑みを消した。 「ここには後日、ボートホイッスル砲という大砲を設置します。他の船にも順次装備させる予定です」 「商いのための船ではないのか」 「此度の参勤で、海に面した藩は各自が海防に務めよと改めて命じられました。けれど今の羽代では商いの船と戦の船を両方揃えることはできません。なので、併用できるように考えて船を設計させたのです」  そんな目的があったから御座船という名目であっても屋形が作られなかったのだと弘紀がいう。聞けばこの船にはそのボートホイッスル砲三台と、薩摩から手に入れた件のアームストロング砲が積まれているらしい。 「他にもミニエー銃五十丁ほどが積まれています。商いの船の改めは番所や奉行所が厳しく執り行いますが、大名の船の改めには同格以上の大名の命令が必要です」  羽代は小藩であっても、朝永氏は江城の帝鑑の間で庄内酒井氏と席を並べる格式である。この船に手出しをできる者はほとんどいない。船に積んでしまえばどうとでもなるという弘紀の話に、幕府の決まりごとの不確実さが垣間見えた気がした。  船尾の状態をひとしきり確認した弘紀は、船のあちこちを覗いて回る。その後をついて修之輔も御座船の中を歩いているうち、伴走している中型の弁財船の帆を操っているのが船子ではなく、羽代の下士たちであることに気がついた。  海上を吹く風にかき消されて何を言っているのか定かではないが、おそらく外田や山崎が大声を出しながら仲間数人と帆を操っている。どうやら三艘の内、馬を載せていない二艘で競争をし始めたらしく、上がる声が次第に大きくなってきた。 「船の上では退屈するだろうから、船の操縦術を実施でさせるようにと山崎に命じたのですが」  外田が船頭代わりになったらしい船は、ふらふらと揺れながらあっちこっちに行く先を変えている。風に対してどのように帆を向けるのか、まだ把握できていないようだ。逆走はしないだろうが、いかにも船酔いしそうな揺れ方をしていて見ているだけで不安になる。 「羽代に着くまでにしっかりと帆船の操術を身に着けてもらいましょう」  弘紀は斟酌なく、そう言い切った。
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