第7章 漆黒の神域

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 深夜の江戸高輪の裏道を、覚束ない足取りでふらふらと歩く男がいた。  先ほどまで江都に降り続いていた強い雨は止んでも、海から寄せる南の風が湿気を陸に留まらせたままである。男が身に着けている汗と埃にまみれた御師装束は雨に濡れて肌に張り付き、動きをさらにぎこちなくさせている。 「よもや新徴組の者を殺すとは。田崎め、あいつが次に狙うのは間違いなく儂だ。夜が明けぬ前にここから逃げなければ。舟は、儂の舟はどこにある」  小道を彷徨い水路を辿りながら、くろさぎは舟を探していた。  江都の水路はたとえ細くても日常的に船が行き交う。置き去られた見知らぬ舟は邪魔になれば船頭の棹に小突かれ回されて思いもよらぬ所へ流される。  これまでは却ってそれで追手の目を逃れてきた。だが今、直ぐにでも江都を離れなければならないこの状況で、持ち主の目まで眩まされてしまっては元も子もない。 「舟、舟はどこだ」  雨を降らせていた雲は、南風に千切れたその合間から星を覗かせ始める。満月にはまだ早く、けれど丸みを帯びた半月が地面に落ちる影の輪郭を明らかにする。動く者は自分よりほかにないはずの道なのに、場違いに小柄な人影が目の前を過った。 ――綾織純白の狩衣装束は袴も白。中の小袖は鮮やかな緋色で、袖詰めの緒と袴の裾飾りも同じ緋の色。  くろさぎの目に希望の光が微かに灯る。 「お前は小菊ではないか。古浪の使いよ、儂を古浪の下へ連れて行け。今ならばこそ我らは伊勢の下へと下ろう」  南風に真白な袖を翻し、軽やかにくろさぎの方へ歩み寄る小菊を迎え入れるように、くろさぎは大きく両腕を広げた。  りん、と涼やかな鈴の音色。まるで落ちてくる月光の粒が当たって弾ける音色の様な。白木の鞘を払って露わになった銀の小刀。柄の先には銀の鈴。  喉に何か熱い縄が巻きついた気がした。次の瞬間、小菊の刃に斬られたくろさぎの首から鮮血が音を立てて噴き上がった。地に崩れ落ちる体の捻じれで血は辺り一面に撒き散らされる。それはかつてくろさぎが町に撒いた羽代の札を思わせた。  痙攣して地にのたうつ死体を前にして、小菊は軽く眉を寄せた。  どうしよう。  自分がこの体をどこかに運ばなければいけないのだろうか。けれど小菊の力では引き摺ることがやっとに思える。背後に近づく人の気配、自分の肩越しに死体を覗き込んでくる人物を小菊は驚くことなく見上げた。深い笠で顔を隠した瓦版売りがそこにいた。その着物の裾には波模様、それは浪笠の名で呼ばれる二色の手の者だった。 「足を持て」  柔らかに人を従わせる声音に従い、小菊はくろさぎの両足首を持ち上げた。浪笠はくろさぎの両脇を持ち上げて軽々と道の先へと引き摺って行く。死体が擦った地面の後は、泥濘(ぬかるみ)がゆっくりとその痕跡を消して行く。 「足を離せ」  再びの命令は道が運河に行き着いてから寄越された。小菊がくろさぎの足を離すと、浪笠は地に横たわった死体の脇腹を蹴り、運河の中へと落とした。真水と海水が入り混じる汽水域、しかも小潮の海の満ち干は判別し辛く、潮より軽く水より重い血液は真水と海水の境を漂いながら体内より流れ出る。  体の全ての血液が運河の水に置換されたその後は、落とされた男の体は二度と水面に浮かび上がってこなかった。
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