第8章 白雲、蒼穹を奔る

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第8章 白雲、蒼穹を奔る

 寒い冬の夜。  海の彼方から満月が浮かぶのを砂浜でじっと見ていた。  母は今まで見たことのない真白の衣装を身に着けて、美しいその横顔はいつもの優しい母の顔とは違った。  自分の体は乳母に抱かれて海風から守られている。  けれど母は真白で薄いその衣装のまま、裸足の足を濡らしながら波打ち際に立っていた。  りん、と鋭い鈴の音。  一定の間隔を置いて母の手の中で鳴らされるその音は、波の音を操るように夜の海を渡って行く。母は絶え間なく何かを呟き続け、満月が中天にかかるまでその儀式は続けられた。 「千代丸は寝てしまいましたか」  自分の幼名を母が呼ぶ。儀式を終えた母は柔らかく笑んで、乳母はその腕に自分を返した。自分の体を包む海風に冷え切った真白な衣装のその向こうには、変わらぬ母の温かな体温があった。 「千代丸様は一生懸命、起きていようとなさっていましたが」 「良い。付きあわせてしまって、可哀そうなことをした」  母の腕に抱かれて二の丸御殿の奥に戻り、正月の飾りが残る自分の部屋に戻された。体の上に母が夜着を掛けてくれて、そして出て行こうとするその袖を知らずに握った自分の手に母の手が重なる。 「また明日の朝。良く寝なさい」  手がそっと外される。けれど、また明日。母の微笑みの残像と共に穏やかな眠りに着いた。 「誰か! 誰かある! 北丸の方がご乱心あそばされたぞ! 誰か!」  羽代城二の丸御殿の母の部屋。母と侍女に囲まれて、いつものように文字を習っている時だった。いきなり襖が乱暴に開かれて、髪をふり乱した女人が部屋へ入ってきた。 「おのれ環、殿の寵愛は我が身にあったにもかかわらずそなたに奪われ、先に生まれた我が子より、そなたが生んだ千代丸が先に元服を執り行うとは」  異様な雰囲気に侍女達は怯え、一番古参の侍女が健気に母の前に身を投げ出した。 「北丸の方、お静まり下さい。ここは御殿でございます」 「その御殿の奥にそなたは住み、妾はなぜ北の丸の薄暗い長屋に押し込められているのだ。世継ぎぞ、妾には朝永の次の世継ぎとなる子がおるのだぞ」  奇異な事に気がついた。  乱入してきた北丸の方はずっと手を後ろに回している。何かを隠し持っているのだろうか。突然の出来事に目しか動かすことができない。そんな自分を年若い侍女が慌てて引き寄せた。 「千代丸様、どうぞこちらに」  その声を聞いた北丸の方がぎろりと視線をこちらに向けた。 「止めろ!」  母が上げた制止の声が消えぬうち、北丸の方が詰め寄ってきた。その手には抜かれた懐剣。侍女が自分の上に覆いかぶさった。その体を不自然な衝撃が貫き、侍女の体は力なく畳の上に崩れ落ちる。  先程までいっしょに草紙を繰っていた侍女の柔らかな白い指。  母に下げ渡されて気に入っていたという薄桃色の小袖の背に、真っ赤な染みが広がって行く。その様子をただ見つめていたから、今度はこちらに向けて降り上げられた凶刃には気付かなかった。  視界の端に金属の鈍い光。ゆっくりと顔を上げ、鬼の形相の女人と目が合った。動けない。刃が。無様に捲れた袖が。剥き出しの腕が。  がつっ、という鈍い音と共に、北丸の方は体当たりをしてきた母に横になぎ倒された。 「千代丸、逃げなさい!」  母の声に命じられ、けれど足が、体が、いうことを聞かなかった。畳に倒れた侍女の体は既に呼吸を止めていた。 「千代丸!」  起き上がった北丸の方が母へと視線を返す。 「おのれ、環。そなたはいつも妾の邪魔をする……!」  母は気丈に狂女を睨み返し、けれど豪華で美しい打ち掛けが母の足に絡まっていた。  母は何も武器を持っていなかった。武家の妻女が持つ懐剣。母のそれは鞘だけであることは近くの者は皆知っていた。 「生家の仕来(しきた)りで、決められた剣以外は持ってはならないことになっている。だが、その剣がむかしに失われてしまってのう」  父が与えた懐剣も母は身に着けようとしなかった。ただ今、気迫だけで母は狂乱の北丸の方と対峙し、注意を己に引き付け、そして。  微かに、静かに、微笑んだ。 「おのれ! おのれおのれおのれおのれ!」  北丸の方は無抵抗の母を刺した。首、胸、腹。打ち掛けの緋色が赤黒い血液に染まって行く。 「誰か……! 誰かっ……!」  その場から逃れた侍女の一人が必死で部屋から這い出し、声を振り絞って人を呼ぶ。だが堅牢な二の丸御殿の壁に阻まれ、助けを求める声は表の護衛の者までなかなか届かない。  すでに正気を喪失した北丸の方は、動かない母の体を執拗に刺した。血が、脂が纏わりつき、骨にあたる度に刃は(こぼ)れる。ただの鈍器と化した懐剣で狂女は母の顔を真横に裂き、さらに次々と斬撃を加えた。  凶鳥のような叫び声が上がり、自分の目の前で母の体が破壊されていく。  血が一面に広がった。  肉片が辺りに散らばった。  真っ赤に崩れた肉塊と化した人の顔から母の面影は失われた。  繰り返し加えられる打撃が頭蓋から何かを押し出し、目の前の血だまりに肉の筋を引いて転がり落ちた。  見るな、と警告の声が聞こえた気がした。けれど既に自分の意識は自分の物ではなく、誰かの意思に従わされているかのように視線はそれに向けられた。  母の優しい目が、血だまりの床の上から、弘紀を見ていた。  過去の自分の叫び声で弘紀は目を覚ました。体を起こし、顎から滴る汗を袖で拭う。  今は夜。羽代に向かう船は錨を下ろして海の上に浮かんでいる。穏やかな波の揺れに呼吸を合わせ、気持ちを落ち着かせた。周りにめぐらされた幔幕が風に緩やかに揺れている。その奥まった正面に置かれた畳の上、そこが羽代へ帰るまでの弘紀の寝場所だった。寝具は簡単なものだが風さえ遮れば寒くない。むしろ風が通ってくれる方が今は有りがたかった。  床が白く光っている気がして頭上に広がる夜空を見上げると、月が上っているようだった。近習の者達は船の揺れに心地よく熟睡している。弘紀はそっと素足のままで、甲板へ上がる階段を登った。  きっとあの辺り。見当をつけて弘紀は甲板を移動する。多くの者が休んでいる風を遮る右舷ではなく、海を彼方まで眺めることができる左舷の片隅。折り畳まれた帆に寄りかかるように座る修之輔の姿を見つけた。寝てはいなかったのか、弘紀が近づく気配に気づいて修之輔の顔がこちらに向けられた。  日の光とは異なって温度の無い月の光に映されると、修之輔の人並み外れたその秀麗な容貌は、人からすらも外れて見える。しばらく月の光に照らされるその姿を見ていたかったが、修之輔が座る場所をずらし、横に座るかと無言のうちに訊ねてきた。弘紀はそれに首を振り、こちらに差しのべられた手を握って引き寄せられるまま、その胸の中に体を預けた。  首筋に顔を寄せてきた修之輔は、弘紀の体が不自然な汗に湿っていることに気づいたのだろう。こちらを覗こうとする仕草に抗って、弘紀は顔を修之輔の胸に押し付けた。肩と腰に軽く腕が回され、抱きかかえられるその体勢に弘紀は満足して目を閉じる。  自分ではない他人の胸の音を耳に直接聞いていると、しばらくして汗が引いていくのが分かった。弘紀は修之輔の腕の中で向きを変え、背を預けた。二人で夜空の同じ場所へと視線を向けると、十六夜の月は中天に差し掛かろうとしているところだった。  天の川が頭上を走るはずだが、明るい月の光に隠れて小さな星々は光を失っている。けれど遮る雲は今の夜空に見あたらず、満天に星が瞬いていることに変わりはなかった。  ふと思い立って、海面を見てみたくなった。修之輔の胸から体を起こそうとすると僅かに引き留められて、けれど弘紀の意図を悟ったのか、すぐに腕が下ろされた。手すりの隙間から頭を出して船の下を覗き込むと、思っていたように海面が青白く光っていた。 「これは」  海の無い場所に育った修之輔が、弘紀と同じように海面を覗きながら尋ねてきた。 「これは夜光虫という小さな虫が集まって出す光です」  修之輔に教えたこの知識、弘紀は誰に教えてもらったものだったか。 「不思議な色を出す。陸では狐が火を灯すというが、あれとは違うのか」 「どうなのでしょう。海に狐がいれば、こんな火を灯すのかもしれませんね」  波間を染める夜光虫の青白い燐光は、二人が揃いで持つ刀の鞘が零す光の色にも似ている。船腹に打ち寄せくだける波の動きに、夜光虫の光は不規則に流れて形を変えた。  頭上には月と星、眼下には夜光虫の海。  眺めているとこの世界にただ二人、夜の海を漂っている心地になる。  弘紀が修之輔の顔を見上げると、修之輔は弘紀に顔を寄せ、鼻先同士を触れ合わせた。穏やかにこちらを見つめる目に先ほどまでの弘紀の恐慌は跡形もなく消え去った。  けれど。その修之輔の目は時々虚ろに光を失う時が在る。そして自分もきっとさっきまで、そんな目をしていたのだろうと思う。  互いの虚ろを埋めあって、この夜を耐え、明日を待つ。  今回の江戸参勤中、弘紀は母の名を何回も聞いた。その度に弘紀が自身の奥底に仕舞い込んだ記憶が呼び起こされて、耐えきれなくなると修之輔に慰めを求めた。  だがその修之輔の心にも参勤中に明らかな変調が見て取れた。無理な任務に就かされていたことだけでなく、修之輔のその変調は自分の変調と同調しているように弘紀には思えた。  それは何故なのだろう。答えを探し、夜の水平線へと視線は移ろう。  十六夜の月は海上に光の道を作り出していた。  補陀落浄土は月の光が導く彼方にあるというが、その先から異国船はやってきた。ならば彼方にあるのは浄土ではなく別の国。そして多くの国があるこの世界は一つの球体であるという。その先を知りたいと思うのならば、夜が明けるのを待つしかない。  ――それともこんなに明るい夜ならば。二人で寄り添っていられるのなら。例え夜が明けなくても、この夜にずっと留まっていても構わない。そんなふうにも思われた。
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