黄昏の邂逅 (「通う千鳥の鳴く声に」外伝)

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黄昏の邂逅 (「通う千鳥の鳴く声に」外伝)

 これが、秋生(あきう)、か。  薄暮の荒れ地にひとり佇む者の名を聞き、改めてその姿を見る。  何をおいてもまず目を惹くのはその美貌。身なりこそ質素だがそれがより彼の者の顔の造作を引き立てる。柳眉たおやかに目元涼しく、鼻梁の縁の柔らかさは女性的でもあって、このため全体の印象をどこか中性的に見せている。  薄い唇は今、乱闘の余韻に軽く開かれて、息を整えている最中だろうが、やや紅潮するその顔色と相まって、ついよからぬ衝動を覚える者もいることだろう。たとえば、自分の横で帳面を繰る若く逞しい役人が、先ほどからそれとなく何度も秋生を見ていることに田崎は気づいていた。  柴田大膳(しばた だいぜん)と名乗ったその若い役人が寄越す質問に答えながら、田崎は秋生に目を戻した。背は中背の自分より高いが威圧感がないのは細身の体躯のせいだろう。しかし剣を振るうその力量は圧倒的だった。剣術というよりむしろ独自の武術といっても良い。  秋生家が引き継ぐ絶対的な護衛を主人に約束する狂狼の血。    整いすぎて表情の見えないその容貌、感情が映らない無機質な瞳に、どこか隠しきれない内面の歪みがにじみ出る。なればこそ、この者が確かに今の狂狼か。己が生涯得ることのできなかった絶対的な護衛者という立場。それをその血筋だけで許されていると思うと忘れていた胸の疼きが蘇る。しかしあの人はもういない。  この青年は守るべき相手を見いだせないまま、これまでの秋生の者のようにいずれ精神を病み荒ませて自滅するのが運命か。そう思えば、その容貌の類まれな美しさがかえって哀れに思われた。  田崎の胸の疼きは身勝手な憐憫で宥められ、気を取り直して自分の年若い主を振り向いて、刹那、解けかけた緊張が強く凝った。    朝永弘紀(ともなが こうき)のその視線は一心に秋生に注がれている。その姿形、立ち居振る舞いを少しでも見逃すまいと。瞳の奥に揺らぐ光は、どこか悦楽の色すら帯びて妖しく滲む。  いつかあの人の瞳の奥にもあったその光。  狂狼を求める巫女の血の呪い、あの人が縛られ、苦しめられ、憎悪し、一方で渇望し、恋焦がれ、その身を引き裂かん苦痛に生涯苛まされたあの呪いは、この年若い主君に受け継がれたのか。  奈落のような絶望に沈みそうになる手前、いや違う、あれは自分の身を救ってくれた相手への感謝や憧憬の感情であろうと自身に強く言い聞かせた。  弘紀の年頃の者なら、自分より年長の同性相手にそのような想いを持つのは珍しいことではない。秋生修之輔の容姿と剣の技量は少年の尊敬の対象として十二分に恰好だ。  あの呪いを、あの人は断ち切ろうとしていた。我が子である弘紀には決して受け継がせまいと。自分のなすべきことはあの人の願いのその行く末を見届ける事。この年若い主が(いにしえ)の呪いに縛られることなく、自らの人生を自らの意志と力で歩み始めたのなら、己は直ぐにでもあの人の下に逝きたいと、その願いだけであの人が命を落とした後のこの数年を生きてきた。   「大膳、ではこちらを城下の宿まで送り届ければいいのだな」 「ああ、頼んだぞ、修之輔」  しかし弘紀の身を秋生に預けたのは自分もまた呪いにとらわれ続けている証かもしれない。    狂狼、いや月狼は、必ず本多の正統な後継者を守り抜く。  あの言い伝えを疑うことなく二人に当てはめていた。  遅れている後続の者達について田崎が大膳と交わす問答の合間、その視界の端、修之輔が差し出す手に弘紀がその手を重ねる。互いの手を取って歩きだす二人の歩様にぎこちなさは微塵もなく、ずっと前から気心の知れた知己であるような。  ああ、そうなのか。その時、田崎はふいに全てを理解したと感じた。  “巫女は忠実な狼を、狼は主である巫女を、互いに呼び求め続ける”  呪いは願いであったのだ。共にありたいと強く願って引き裂かれた二つの魂。強すぎる願いはいつしか次第に姿を変えて、巫女と狼を縛る呪いになった。  共にありたいと想う願い、共にいられないのなら生きていけぬ、共にあるべしと縛る呪い、それは元々同じものであった筈。  今ようやく、呪いが解けて願いが叶えられたのだと囁く美しい女の声。それは弘紀の母、環姫の声か、神話の巫女と月狼の声か。あるいはただの風の囁き、幻であったのかも知れぬ。  遥か時の彼方から連綿とつながる(えにし)の円環は今閉じて、環姫の願いの一つ、古の呪いは既に解かれた。ならば己が成すべきことは。    黒河の地を厚く囲む高い山々の影が夕暮れに黒く圧し掛かる。田崎はこれまで歩いてきた街道のその向こう、羽代の方角を振り返った。
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