第1章 青嵐の予兆

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 格子窓の外からは町の喧騒が聞こえる。棒振(ぼてふ)りが魚を売り歩く声、茶屋娘が客を引く声、笛の音、小鼓の音も聞こえるのは道端で芸でもやっているのか。さわさわと小川の流れる音にも似た往来をゆく様々な人々の話し声。   加ヶ里は江戸の町の華やかで賑やかな雰囲気が好きだ。でも海風がつねに吹いている羽代とは違い、どこか埃っぽい町の通りは、時折、歩くことすら嫌になる。  駕籠に乗れば、というわけではない。そんなときはこうして家屋の二階、深い廂に隠れて通りを眺めているぐらいがちょうどいい。  春の陽が次第に西に傾いて、冬とは違う優しげな暮れの雰囲気が漂い始める街角の景色。  あそこを行くのは大店の奥様かしら、派手ではないけれど充分に金のかかった着物を着て帯も逸品。お供の男衆が数人、多く見えても今のご時世だから仕方ない。大人の足の間に守られるよう、十歳ぐらいの女の子の姿が見えた。なるほど母娘での買い物に、商い家中の者が総出で付いて来たらしい。  甘えて母親の袖を握る女の子の可愛らしさに目を細めて、自分にあんな頃があっただろうかとふと思う。  母親の顔すら知らないのに。  座ったままで桟に腕を掛けて寄りかかり、そうして往来を見ていると、部屋の入口、襖が音を立てずにすっと開いて、部屋の中に誰かが入ってくる気配があった。加ヶ里はちょっと目線を脇に流しただけで振り向きもせず、むしろ足をつうっと畳の上に伸ばして寛ぐ体で、あるいは誘う姿態で相手を迎えたのは自分でも理由の分からない、ほんの気まぐれだった。 「ようやく着いたの、ずいぶん遅かったわね」 「羽代から陸伝いに北の海に出て庄内を回ってきた。決められた期日には間に合っているはずだ」 「私一人がいつまで江戸で待ちぼうけなのかと思ったわ」 「何を言う。田崎様から前金せしめて遊び歩いていたんじゃないのか」 「遊ぶための前金なんてこれっぽちも貰ってないわ、勝手なことを云わないで」  そこで加ヶ里はようやく後ろを振り向いて、けれど向けた視線は針の鋭さ。相手は首を竦めて軽口を止め、畳の上に胡坐をかいた。  無駄口は聞かない男だと思っていたけれど。それともそれは田崎の指示だったのか。 「じゃあお前は何をしていたんだ」  相手は聞き馴染みのある愛想の無さで、それでも重ねて加ヶ里に尋ねてきた。ほんとうに珍しい。 「あなたたちが仕事しやすいように準備していたの。こっちでの大きな仕事、聞いているでしょ」  そうか、と云ったきり相手は黙った。いつもは口数が少ない男が、今みたいに余計なことを口に出すのは他に望みがあるからだ。  加ヶ里を見る男の目の中に蠢く光。怯まずに見返す。  夕方近い町屋の二階は灯りを点すにはまだ早く、相手の表情を見極めるには昏すぎる。それでも互いに何を考えているのか、心を汲み取るのに支障はない。  いや、今、相対する男の目に映るのは心、ではない。ただの肉の欲望。  男の目の中の自分は、きっと帯も着物も纏っていないだろう。男の厚い手の平が自分の素肌、胸や腹を撫で上げて、足の合わせ目に忍び込んだ指がそこをまさぐる感覚を想像して目を細める。  そして、加ヶ里は空想の中の自分が悦楽も快感も憶えていないことを確認し、目を伏せた。 「今はその気になれないわ。悪いけど玄人を相手にしてちょうだい」  お前以上の玄人を知らないけどな、と男は言って加ヶ里から視線を外した。無理強いはしてこない。当然だ。長い付き合いで、加ヶ里に本気で抗われたら男がどんな目に合うか、他人事ながら何回も目の当たりにしている。 「今度の仕事、お前は誰と組む。女一人では目立つぞ」 「虎猫を相手にしろと、仰せつかっているのよ」 「虎猫」 「そう、羽代の野良の虎猫。空いた屋敷に何匹も野良猫を集めて棒打ちごっこのお山の大将」 「なんだ、あいつの事は苦手か」  そんなことないわ、その言葉が必要以上に実を伴っていないと口にしながら実感し、それもどうでもいいことと投げやりに思う。 「たまにはああいうのを相手するのも目先が変わって良いものかしらと、むしろ楽しみにしてるのよ」 「お前が仕事を楽しみなどと、珍しいことを言うものだ」  付き合いが長い分、だいぶこの男には自分のことが読まれてしまう。けれどそれはお互い様。江戸に着いたとの報告はいつもの決められた通信手段、つまりは顔を合わせぬ人づての伝令で済むはずなのに、直接私に会いに来た。なんて正直な男かしら。 「今の仕事よりは絶対に楽だもの。面倒なのよ、新徴組は。女が入り込む隙がまったく無くて。所帯持ちは身持ちが固いし、ひとり者が遊ぶ廓も、座敷に呼ぶ芸者も、すべて庄内の酒井様が管理している」 「めずらしいな、てこずっているのか」 「目先を変えた方が良い、とはもう田崎様にお伝えしている。だから田崎様はあなたを庄内へ行かせたのでしょう」  なにか有益な情報を仕入れた、だからこの男は期日を残して早々に江戸にやってきたのだろうと加ヶ里は読んでいる。 「あなたの仕事、一段落ついたのならば、わたしの仕事を手伝ってくれるかしら」 「新徴組の調略はお前の仕事だ。俺が口を出すことではない。俺にはまた別の仕事がある」  加ヶ里は男の顔を眺めた。誘いを断られるのは、単純に面白くない。 「・・・・・・ね、やっぱりしていかない」 「おまえこそ玄人に頼め。俺じゃなくていいんだろう」 「あなただって、私じゃなくていいんでしょ。似た者同士、慰め合いましょうよ」 「慰める、という玉か、おまえは」  くくっと小さく加ヶ里は笑い、男の手を取って自分の襟の合わせ目に引き寄せた。  往来に面した障子を立てれば部屋の中は薄暗く、けれど春の夕暮れにはまだ遠い。日中の町の喧騒を聞きながら肌を重ねる躊躇いなんて、ほんの少しも感じない。そんなことを考えて、加ヶ里は思わず零れる笑いを堪えた。  男と肌を合わせることに躊躇いなんて、未通女でもあるまいし。 「名前、なんて呼べばいいかしら」  任務の時に顔を合わせても、互いの名前は口にしないのが決まり事。相手の逞しい腕に体を引き寄せられながら聞いてみる。 「お前から今さらそんな言葉がでるとは思わなかった」 「原様、なんて、最中に呼ばれたいのかしら」  あえて禁を破って相手の名を呼ぶと、好きにしろ、そう短く言って原の手は加ヶ里に引き入れられた襟の合わせから、強引に乳房を揉み始めた。  帯が締まって少し苦しい。でもその分、息が直ぐに荒くなる。  着物の襟が背中から引かれて、その引く力に合わせて自分で着物の前を開くと帯は自然に崩れて緩む。濃茶に見えて臙脂のよろけ縞、小袖は帯に絡まって、更紗の襦袢が薄暗がりに露わになった。原が着物を剥ぐ手を止めて、襦袢の品に目を細める。 「良い物を付けているじゃないか」 「これがわたしの道具だもの、当然よ」  遠目には緋色の襦袢に見えて、近づいて目を凝らせば紅で染められた繊細な西洋草木の文様が白の木綿の生地をみっしりと埋めている。この色合いが自分の肌をより艶めかせることを加ヶ里は知っている。すでに開いた襟から零れる白い乳房の盛り上がり。圧し掛かる原の肩を手で押しとどめ、自慢の更紗と自分の白肌、薄紅色のその先端を男の目に充分、賞玩させる。  今回江戸に来てすぐに買った新しい得物。男の目に与える影響を加ヶ里が検分した頃合いを見計らって、原は加ヶ里の乳房に吸いついた。固くしこる先端を舌で舐められ、指で摘ままれ。裾を割って足の付け根に伸ばされた指は既に裂け目に潜り込んでいる。そんなに久しぶりの感覚というわけではなかったけれど、指の腹で擦られる甘くひりつくような刺激に思わず加ヶ里の口から喘ぎが漏れた。  原の手管は充分知っている。部屋の中に低く響く濡れた音。この先を思い出しながら肌だけでなく気息も合わせれば、自然と呼吸は乱れて、体も濡れる。それは相手も同じこと。手っ取り早く、手軽に、なにより他の相手なら頭の隅にいつも消えない命の危険を、この相手なら一時忘れて没頭できる。  肌を合わせることに大した意味なんて、ない。
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