父を乞う虫

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 子どもの頃に住んでいた家には、物置小屋があった。三輪車や自転車や竹ぼうき、高枝切り鋏や腐葉土の余りなどが詰め込まれた、薄暗く狭い小屋だ。  何の塩梅が良いのか、そこの木の柱に蓑虫がぶら下がっているのを見つけた。  茶色い襤褸を纏ったような姿がどこか惨めな虫だ。  工具箱を取りに入ったはずだったのだが、ちっぽけな虫を目にして僕の興味はそちらに移った。細かな木の枝の寄せ集めでしかないその蓑を剥がしたならば中にどんな虫が入っているのだろうと、子どもらしい好奇心が沸き上がった。  手にとると、声もないはずのその虫に呼ばれたような気がした。  ……何か言ったか?  泣きそうに聞こえたその声に、加虐心とともに不思議な愛情のようなものを感じた。  いまこの虫は、何もできずに僕の手の中にいるしかない。何と弱い存在だろうと——憐憫を抱くと同時に愛しさを覚えたのだ。自らの手で虐げようとしている最中でありながら、守ってやりたいとも思った。  蓑虫は動くことなく、惨めな襤褸の中に籠り続ける。  小さな蓑を剥がし中を覗こう——そうすれば「お前」が見える——そう思った時、  ——こら。  背後から声をかけられた。父親だった。蓑虫を優しく掬い取る。  ——可哀そうなことをするんじゃない。  ——あっ。 (あぁ、見える)  父の穏やかな叱責を受けながら、視線は蓑虫を追っていた。僕の手により剥がされかけた茶色い蓑の中に、目が見えた。  やわやわとした体と、こちらを見てくる真円の目。  こちらを伺い、選ぼうとしている。何を探している。何を選んでいる。  ととさま。  聞こえぬはずの虫の声。そうかお前はひとりなのか、捨てられたのか。 (父親が欲しいんだ)  それなら僕だ。僕を選んで。  ——それ、僕のだよ!  咄嗟に父親にしがみ付いていた。「それ」は僕のだ。  僕の子どもだ。  取らないで。  ——お前は虐めてしまうだろう? 駄目だ。  父は僕から蓑虫を守ろうと腕を高く上げた。  ——ととさま。  今度はたしかにそう、聞こえた。  僕は愕然とした。蓑虫は僕ではなく、僕の父を「父親」に選んだのだ。なぜなのか、それが理解できた。 (取られた)  僕の子どもが取られてしまった。  僕の弟は、「彼」ではなかったはずだった。  顔かたちもまるで同じで、性格もたぶん同じだったろうと思うけれど、翌朝に会った弟は、本当の弟ではなく蓑虫になっていた。  蓑虫が弟になっていたのだ。もとの弟がどうなったのかは、わからない。  彼は僕の弟をよく演じた。  小さい時からの記憶も皆との食い違いなく保持していたし、振る舞いにおかしなところはなく家庭に齟齬は生じなかった。  ただ違いを挙げるとするならば、もとは母によく懐いていたのに、父にべったりと甘えるようになったことだ。僕がお父さんっ子で弟がお母さんっ子、そういう風に甘える対象が各々別だったはずだった。  弟が、父を呼ぶ。  ——お父さん。 (ととさま)  ——お父さん。 (ととさま)  甘えるたびに父を呼ぶ声は可愛らしく、蓑虫であった時の泣くようなかすかな声も混じる。絶対の信頼と決して絶えることのない全力の愛情が込められている。僕はその声を聞く度に悔しく思った。  父親を取られたことを悔しく思ったのではない。「僕の子ども」になるはずだったものを、父に取られたことが悔しくてならなかったのだ。  あの真っ黒な瞳は僕に向けられるべきものだった。あの子どもは僕のものになるはずだった。  もうそうはならないだろうことは理解していた。蓑虫は選んだ父親を途中で変えることはおそらくない。    弟はそのまま僕の家族として大きくなり、成人を迎えた。母だけが時折、自分に甘えてばかりいたほんとうの弟との違和感に首をかしげることがあったけれど、最後まで気づかれることなく彼は弟になりきって巣立っていった。
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