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序章
平野武夫は自宅のアパートへの道を急いでいた。
きっかけは妻の瑠美とのLINEだった。
武夫は外回りの営業をしている。比較的時間が自由なこともあり、仕事中も何度か妻とLINEでやり取りをしていた。
それが今日は、昼すぎに返信があっただけだった。後に武夫が送ったメッセージは既読にもならず、何度電話をかけてもつながらなかった。
何かあったのではないか、と思った。妻は妊娠七か月目で、出かけるにしても近所のスーパーに買い物に行くくらいだ。連絡が取れないのはありえない。
武夫の頭の中に、いろいろな思いが駆け巡っていた。買い物の途中で事故にあったのではないか、予定日よりも大幅に出産が早まったのではないか――。。
一階の部屋から買い物かごを下げた白髪の老婆――アパートの大家――が出てくるのが見えた。武夫は大家に駆け寄り、妻を見かけなかったか訊いた。険しくなっている顔を取り繕う余裕もなかった。
「買い物とかじゃないのかい」
「それだったら、返信ぐらいできるさ」
大家ののんびりした口調が武夫を苛立たせた。会話を打ち切り、アパートの階段を上る。大家も後についてきた。二階のいちばん奥の部屋の前で立ち止まり、ノブを回した。扉は抵抗なく開いた。
不安がさらに濃くなった。武夫は大家に扉の外にいるようにいった。
「ルミちゃん」
声をかけた。入ってすぐがキッチンになっているが、電気は点いておらず暗かった。壁のスイッチを入れる。
ぎくりとした。白木の床が真っ赤だった。
赤い床は照明の光を受けて、ぬめぬめと気味の悪い艶を放っていた。よく見ると、ところどころに靴底のようなものが残っている。
武夫は靴を脱ぐのももどかしく、部屋に上がった。四畳半のキッチンの奥に六畳の部屋があり、両間を仕切る引き戸は閉じられていた。
床に足を滑らせ前のめりに倒れた。気持ちばかりが焦っていた。両手をついて上体を上げると、ワイシャツが真っ赤に染まっていた。
――何だ、こりゃ。いったいどうなってんだ。
武夫は目の前で起きていることに理解が追いつかなくなっていた。四つん這いのまま前に進み、右手を伸ばして戸を引く。
同時に隣室の光景が目に飛び込んできた。
「うわあああっ」
武夫は叫び声を上げていた。
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