序章

2/2
98人が本棚に入れています
本棚に追加
/78ページ
「気分はどうですか。この後、病院に行かれますか」  パトカーの後部座席の武夫に、隣に座った町田署の男性刑事が訊いてきた。 「大したことないから、いい」武夫は顔を左右に振り、刑事に顔を向けた。 「それよりルミちゃんは見つかったのかよ」 「いや、その点なんですがね……」 「しかもあの女、そもそも誰なんだよ? まったく迷惑な話だよな。血の臭いってさ、いくら掃除しても残るんでしょ。どうしてくれんだよ」  言いよどむ刑事の言葉に被せ、わざと軽口を叩くようにいった。そうしていないと、目の裏に死体の映像が蘇ってきそうだった。無残、凄惨、状況の酷さを表す言葉がいくつか浮かんだが、そのどれもが現実にはそぐわないように思えた。 「本当にあのご遺体に心当たりはありませんか」  刑事が武夫をじっと見つめたままいった。 「はあ?  何いってんだよ、ないない」半笑いしながら顔の前で手を振る。 「ですが、生前の顔とご遺体の顔ではずいぶん印象が違う場合もあります。大変申し上げにくいのですが、肉親の顔すら見間違えることもあるんですよ。もう一度ご確認いただいても宜しいですか」 「あんた、何がいいたいんだよ」  武夫は目を見開いた。どうやら警察は死体が妻ではないかと考えているようだ。 「いいか、俺はルミちゃんの旦那だぞ、その俺が、あの死体の顔を見てルミちゃんじゃない、知らない女だといってるんだ。何度も見たよ、気持ち悪いのを堪えて何度も何度も……」  気が付くと、刑事の両肩を掴んで怒鳴っていた。どうしてこいつは俺のいうことを信じないんだ、と思った。確かに初めて死体を見たときは動揺した。だが今の武夫は現実から目を逸らしているつもりも、ましてや嘘をいっているつもりもなかった、  刑事が武夫の指を自分の肩からゆっくりと引き剥がした。 「平野さん、それならもう一度ご確認いただいても問題ないでしょう」 「ああ、そうかい。なら確認してやるよ」  売り言葉に買い言葉で、武夫はパトカーの外に出た。こうなったら警察がもういい、というまで確認してやろうと思った。「ちょっと待って」と刑事の声が聞こえたが、構わずアパートに走った。さきほどから降り出した雨は激しさを増しており、雨粒が顔を打ち濡らした。  階段の手前で制服警官二人が立ち塞がった。強引に突破しようと思ったが力づくで肩と腕を掴まれた。途端に身動きができなくなった。 「勝手に入ることはできませんから」 「放せっ」  武夫は声を限りに叫んだ。
/78ページ

最初のコメントを投稿しよう!