第一章

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第一章

                1  現場のアパートに続く狭い道には、すでに警察関係の車両が数珠つなぎになっていた。暗い路地の中に赤色灯が点滅し、集まった野次馬を照らしている。  天ヶ瀬真琴はアパートのかなり手前でタクシーを降りた。バックパックを背負い、ウールのマフラーに顎を埋めて、雨に濡れた道を小走りに進む。  雨脚は激しく、頬に当たる粒が痛いほど冷たかった。一歩進むたびにアスファルトに溜まった雨水がしぶき、息で口の前が白く曇った。  立ち入り禁止のテープの前で、制帽のひさしから滝のように雨だれをたらした警官が天ヶ瀬を見た。あからさまに「誰だコイツ」という顔を向けてくる。 「ご苦労さまです」  真琴はいい、テープの内側に入ろうとした。 「ああ、すいません。勝手に入らないで」  その言葉に真琴は動きを止めた。改めて警官を見上げる。見たところまだ若く、警察学校を卒業して一、二年といったところだろう。  私の顔が所轄に売れていないのはわかるとしても、この腕章を見ればわかるでしょ――そう思って真琴は自分の左腕を見た。それで腕章をしていないことに気が付いた。 「あれ、天ヶ瀬家の姫様のおなりかい」  身分証を取り出そうとしたところで、警官の背後から声がした。見ると紺色の作業服を着た中年の男が、眼鏡の奥の小さな目を見開いて立っていた。男は鑑識課の主任の梶原だった。  梶原がこちらに近づいて来た。ヤニで汚れた歯をむき出して、にやにやしながら真琴の頭の先から爪先まで眺めまわす。 「相変わらず地味な姫様だな」 「どうもすいません」  いつも同じような黒のパンツスーツに黒のスニーカー、男物みたいなバックパックを背負い、化粧もしていない。髪も毎日リンスくらいはしているが、いかにも重そうな真っ黒で直毛のショートヘア。これで背くらい高ければクールな女刑事の線でも行けるのだろうか、身長も百五十三センチで平均身長以下だ。地味なのは真琴も自覚しているので、梶原の言葉を受け入れざるを得ないのだが、それでもいいかたは気に障る。  梶原が警官の肩に手を置いた。 「おい、こいつはな。警視庁じゃ有名な天ヶ瀬家の姫様だ。警視庁捜査一課、天ヶ瀬真琴巡査部長、二十八歳。お前も警官なら天ヶ瀬って苗字くらい聞いたことがあんだろう」 「あ、はあ、苗字だけならよく……」  警官が戸惑った顔で、梶原と真琴の顔の間に視線を往復させる。そして気が付いたように「失礼しました」と敬礼し、テープを引き上げた。 「ありがとうございます」  白手袋をはめながらテープをくぐり、真琴は梶原に頭を下げた。何も年齢までいうことはないでしょ、との不満は胸の奥に閉じ込めておく。 「お前で大丈夫か。この現場、かなり酷ぇぞ」  梶原がにやにや顔のまま、顎でアパートを示した。 「そんなですか」  お前で、という部分に悪意を感じたが、そんな気持ちはおくびにも出さずに訊いた。 「俺も長い間やってるが、今回は断トツだな」  なぜか嬉しそうにいい、梶原の笑顔が大きくなった。 「ちゃんと見とけよ、爺さんや親父さんの顔を潰すんじゃねえぞ」
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