第一章

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2  内側に脚を踏み入れると同時に、むせかえるほどの血と糞便のにおいが真琴の鼻腔を襲った。ハンカチで鼻をふさぎたかったが我慢する。  真琴は通行帯の上を歩いて部屋の中を進んだ。鑑識の強いライトに照らされて全裸の被害者が足の裏をこちらに向けて仰向けに横たわっていた。まだ若い女性だった。  血の臭いがさらに強くなっていた。真琴は吐き気をこらえながら被害者に近づいた。実のところ、スプラッタ映画鑑賞が趣味などとは嘘だった。真琴は何度臨場しても、殺人現場独特の臭いに慣れなかった。  被害者の腹部は、みぞおちから下腹部にかけて大きく縦に切り裂かれ、さらに横に広げられていた。はみ出た腸が紫色に変色し、身体の外に大きく飛び出ている。巨大な軟体動物の触手が被害者の腹を突き破って、中からはい出そうとしているようだった。  丸藤が部屋に戻ってきた。真琴に小さく頭を下げ、まだ青い顔で近づいてくる。 「先ほどは失礼しました」 「もう大丈夫なの」 「面目ないっす、どうか濱岡主任にはこれでお願いします」  丸藤が口の前で人さし指を立てた。濱岡とは捜査一課第七係の班長で、真琴や丸藤の上司の濱岡警部補のことだった。 「ところで第一発見者は、この部屋のご主人だって聞いたけど」 「そうなんす。いちおう第一発見者の今日の行動は、機捜が裏を取ってます」 「マルガイの身元は」 「所轄は奥さんじゃないかと考えているようっすけど、それもまだ」  丸藤が顔を振った。 「身元を確認できるのは第一発見者だけなの」 「先に現着していた機捜の連中から聞いたんすけど、下に大家の婆さんが住んでいるんだそうです。何でも第一発見者と一緒に部屋の前まで来たらしいんすけど。それで身元確認をお願いしたら、部屋に入った途端に臭いにぶっ倒れちまって」 「そうでしょうね」  被害者の状況を見ていないのは、不幸中の幸いだったのかもしれないと真琴は思った。お婆さんの年齢はわからないが、気を失うどころでは済まなかったかもしれない。それほど被害者の状況は惨たらしかった。  いずれにせよ被害者の身元は、まだ確定できてないわけだ。もっとも殺人事件の場合、死体発見後すぐに身元の確認が取れるほうが少ないのだが。 「どうして所轄は、マルガイが奥さんじゃないかと考えたの」 「ああ、それはすね」  丸藤が顔をしかめた。 「遺体の特徴からマルガイは妊娠してたみたいっす。第一発見者の奥さんも妊娠七か月だって聞いてますんで、そう考えたみたいっす」  えっ、と真琴は声を上げそうになった。思わず口元を手で押さえる。丸藤が真琴のいわんとすることを察したようにひとつ頷いた。 「腹から胎児と胎盤が取り出されてます。ひでえ話っす」」 「それで、赤ちゃんはどうしたの」 「見つかってないっす。どうやらマルヒが持ち出したんじゃないかと」 「……そうなの」  真琴は改めて横たわる被害者を見た。  梶原や丸藤の言葉は大袈裟ではなかった。殺害の手口といい状況といい、今まで見たどこよりも凄惨な現場だと思った。真琴は喉の奥からせり上がって来る酸っぱい液体を呑みこんだ。気持ちを落ち着かせるために、深呼吸する。 「おーおー、こいつはまた派手にやらかしてくれたもんだな」  現場に似つかわしくない声に振り返った。真琴の直属の上司である主任の濱岡が、同じ班の捜査員を引き連れて入ってきた。小柄な身体の肩をいからせるように歩いている。 「お疲れさまです」  真琴は頭を下げた。だが濱岡はちらりと目を向けただけて何も反応しなかった。そのまま隣の鑑識課員に声をかけている。  真琴は小さく息を吐き、被害者の顔のあたりまで進んだ。その場にしゃがむ。被害者はきれいに化粧をしていた。首から下は血で赤く染まっているが、白い首や化粧が施された顔には傷や血しぶきひとつ残っていない。死んでいるとは思えないほど穏やかで、女の真琴が見ても息をのむほど美しい顔立ちをしていた。周りの凄惨さと、白く美しい女の顔の対比が現場の異常さを際立たせている。凄惨さと美しさが共に成立している不思議な現場だった。
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