終章

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             6 「天ヶ瀬さん、あそこっす」  歩いていた堤防の上から、丸藤が強い光に照らされた場所を指で示した。  現場は旧江戸川の河川敷だった。大学生のカップルが、胸から血を流して死んでいる中年の男性を発見した。現場から凶器らしきものは発見されず、ただちに殺人事件として所轄の江戸川署から捜査一課への応援要請が入った。  二か月前――。  佐々岡瑞希との格闘で負った傷は骨まで達していた。大量に出血し、あと少し救急隊が駆けつけるのが遅かったら命も危うかったと、気が付いた病院のベッドの上で聞いた。だが幸いにして神経に損傷はなく、指先の運動能力にも問題ないほどに回復ができた。今ではすっかり包帯はとれていたが、傷痕は自分で見ても痛々しいほどで、医者から痕は一生残るだろうともいわれている。  この先、傷痕を見るたびに真琴は松山のことを想うだろう。そして「自分はやはり刑事として生きていくんだ」と決意を新たにするのだ。 ――アタシね、お酒が飲めなくなっちゃったの。ほら、お酒はヨシ兄ぃが大好きだったでしょ。グラスに注がれたお酒を見ると、ヨシ兄ぃがおいしそうに飲んでいた姿が目の裏によみがえってきちゃうの。それが辛くって……。  ほんの一週間前、トニーから電話があった。横浜の店を閉めたという。  松山が亡くなった直後、トニーは一週間ほど仕事を休んだ。だが今では以前と変わりなくテレビ出演を続けている。賑やかにしていないと、喪失感に頭がおかしくなってしまうからだそうだ。そんなトニーの言葉を聞きながら真琴もまた、泣いた。  佐々岡瑞希は松山刑事の殺人と小野寺さくらの殺害容疑で起訴される予定だった。  そもそものきっかけが真琴と松山の佐々岡家への不法侵入であったため、起訴に関しては上層部内でも意見が分かれたらしい。真琴も過去の経験から不起訴を覚悟していたが、鳥居課長や西田管理官が主導して起訴の方向に意見をまとめあげた。そのために真琴たちの不法侵入の事実は隠ぺいされた。真琴は真実を話したいと抵抗をしたが、ここで不起訴になってしまえば、あまりに松山刑事が報われないとの吉野係長の言葉に説得された。  いっぽうで、佐々岡瑞希の家の捜索を行った結果、床下から白骨化した四体の遺体が発見された。それらは鑑定の結果、十代の男性、二十代から三十代の男性、四十代から六十代の男女と判明した。  佐々岡家の周辺の住人に聞き込みを行っても、瑞希以外の人間の出入りを見た者はいなかった。家屋の中にも瑞希以外の人間が生活していた痕跡はなく、さらには両親や弟がどこかに勤務していたり、学校に通っていたとの情報も得られなかった。  佐々岡家は、今から三年前に鳥取県の米子市から現住所に住民票が移されていた。佐々岡瑞希の両親はいずれも親戚や肉親がいない。鳥取県警の協力を得て、当時佐々岡家が住んでいた付近の住民、瑞希や弟の学校の同級生などから聞き込みを行った。その結果、驚くべき事実が発覚した。  鳥取の高校で青春時代を過ごしていた佐々岡瑞希は、身長百八十センチを超え、バスケットボールに打ち込むスポーツマンだった。身長百六十センチ足らずで華奢な佐々岡瑞希と名乗る男とは、似ても似つかなかった。  つまり鳥取での佐々岡瑞希と東京の佐々岡瑞希は、まったくの別人だった。ならば、今警察で身柄を拘束されている者はいったい誰なのか。  おそらく佐々岡家の床下から発見された白骨死体は、年齢や体格から佐々岡瑞希、瑞希の弟、そして両親のものであろうとの推測がなされている。検察はこの四名の殺害容疑で死刑を請求する方向で動いているが、今だ完全解明には至っていない。とにかく鳥取県内には佐々岡家の人間の痕跡があまりにも少なすぎ、唯一の情報源である佐々岡瑞希と名乗っていた男が、松山刑事と小野寺さくらの殺害事実を認めた以外は、殺害方法を含めて完全黙秘を続けているからだった。  真琴と丸藤は堤防を下りて、雑草の茂る河川敷を進んだ。強いライトに照らされた現場には、紺色の作業服を着た鑑識課員たちが忙しなく動きまわっている。その様子を遠巻きに見ている男たちは、所轄や機捜の刑事だろう。どうやら一課の捜査員の中では真琴たちが一番のりのようだ。 「何だよ、ここも姫様の担当か」  声に振り返った。鑑識課の主任の梶原が背後に立っていた。 「お疲れさまです」真琴は身体の向きを変えて頭を下げた。 「お前が担当じゃ、このヤマは縁起が悪いな」  にやにやと笑みを浮かべながらいった。真琴は意味がわからず、目顔で答を促した。 「もっぱらの評判なんだよ、何といったって、バルクの件じゃ警察は二度も捜査のミスを認めざるをえなかったんだからな」 「その点は、ご心配には及びません」真琴は意識して笑みを作り、顔を振った。「これからは二度とそのようなことがないように、私もいうべきことはその場でどんどんいっていくつもりです。それに――」  一歩、前に踏み出し梶原を見上げる。 「私が捜査一課長になった暁には、決して警察に恥をかかせるような失態はいたしませんから」 「何をいってるんだ、お前。いうに事欠いて捜査一課長なんて――」  梶原が目を見開き、半歩後ずさった。 「とある人から、言葉にし続ければいつかは実現すると聞きました。だから私はこれから何度もいいます」  真琴は真顔でいった。心の底から思っていた。天ヶ瀬の名から、天ヶ瀬の血からは、逃れることができない。ならば自分は、父が叶えられなかった、そして天ヶ瀬として宿命つけられた捜査一課長になってみせる。それは祖父や父のためではない。ましてや天ヶ瀬の名のためでもない。  少し前までの真琴は、自分がどうして刑事になったのか、よくわかっていなかった。松山からの質問にも答えることができなかった。  だが松山の姿を見てわかった。  正義だ。犯罪者を逮捕する、法の裁きを受けさせる――松山は自らの命を賭してまでそれを守った。そして我を失い、佐々岡瑞希を危うく殺してしまいそうになった自分にも同じ血が流れていると思い知った。それは天ヶ瀬の血ではない。刑事の血だ。  だから私は刑事をしているのだ、と思った。  肌に冷たいものを感じた。見上げると暗い空から雪が落ち始めていた。 「お前なあ、いくら天ヶ瀬だからって――」  苦笑した梶原の視線が真琴の頭上に移動した。 「こいつにはそれをいう資格があるんですよ、梶原さん」  背後から声がした。真琴は振り返った。 「おう、あんたか」  梶原がいった。声の主は主任の濱岡だった。濱岡は先走った行動で捜査を誤った方向に導いたとして、責任を問われた。だが普段からの上役への気遣いが効いたのだろう、今でも真琴の上司のままだった。  そして意外ではあったが、真琴の現場復帰を誰よりも働きかけてくれたのは、他ならぬ濱岡だったと係長の吉野から聞いた。 「こいつは自分の力であのヤマを解決したんですよ。殉職した松山さんの傍にずっと付き添って、もう少し遅かったらこいつの命も危うかったそうです」  濱岡がいったん言葉を区切り、真琴に視線を移した。 「まあ、今回のところは認めてやるよ。さすがは『天ヶ瀬のお姫様』だ。デカの覚悟を見せてもらった」 「姫呼ばわりは変わらないんですか」 「だって姫様は姫様だろうが」濱岡がいい、笑った。  真琴もきごちなさを自覚しながら笑みを作った。まだ松山の件が心に重くのしかかっていて、心の底から笑うことはできなかったし、濱岡に対する感情が変わっているわけでもなかった。  さっき降りはじめた雪の粒が、濱岡のコートの肩に静かに舞い降りていた。雪の粒は明らかに大きくなっているように見えた。この冬、東京で本格的な降雪はまだなかったが、今回は積もるかもしれないな、と思った。  頭の中に、父が死んだ日の東京の雪景色が一瞬だけ浮かんだ。  真琴は表情を戻した。 「じゃあ、私はマルガイの確認をしてきますので」一礼して身体の向きを向けた。 「おう、よく見とけよ」  濱岡の言葉を背中で聞きながら、真琴は現場を照らす強い光の中に入っていった。                   終
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