第一章

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3  午後十一時。真琴は遺体の司法解剖が行われている病院のエントランスをくぐった。第一発見者の平野武夫から改めて事情を訊くためだった。 「アリバイの裏は取れてるんだっけ」  通路を進みながら、隣を歩く丸藤に訊いた。 「会社支給の携帯から行動履歴が確認できてます。結果は平野さんの証言通りでしたけど、念のために名前の挙がった訪問先にも足を運んで間違いないとの証言が取れてます」 「そう、なら問題ないね」  真琴は前を見たまま頷いた。ひとまず平野武夫を容疑者リストから外しても大丈夫だと思った。事情を訊く相手に犯人の可能性があるのとないのとでは、質問内容も大きく変わってくる。 「しかし、旦那が自分の奥さんの顔をわからないなんてあり得るんすかね」  丸藤が、信じられないとでもいいたげな言葉を口にした。 「たぶん認めたくないって気持ちも強かったんだと思うよ」  真琴はそう答えるいっぽうで、武夫の気持ちだけが理由ではないとわかっていた。  被害者は武夫の妻で平野瑠美、二十一歳だとようやく確定した。夫が第一発見者にもかかわらず確認に手間取ったのは、遺体に施されたメイクのせいだった。解剖のために病院に運ばれ、メイクを落とした遺体を見て、夫の武夫は遺体が妻だとようやく認めた。  人間が死ぬと顔の筋肉も弛緩する。したがって生きているときとは全体的に顔の雰囲気が変わることはよくある。  だがメイクを落とした瑠美の遺体は、変わるというレベルを超えていた。  部屋にあった写真で見る限り、瑠美は目元のメイクこそ濃かったが、全体的に凹凸の少ない平面的な造りの顔立ちをしていた。ところが遺体の顔は化粧こそ薄付きに見えたものの、鼻筋がはっきり通り、唇も肉感的で立体的な顔だった。  真琴も初めて見たときは、欧米系の女性かと思ったほどだった。写真と遺体の女は別人だと疑いもしなかった。  化粧で人間は別人といえるレベルまで変われるものなのか――。  女の真琴ですらそう感じたのだから、他の刑事たちの驚きはもっと大きいだろうと思った。もっとも真琴も化粧の知識は他の刑事たちと似たり寄ったりなのだが。  エレベーターに乗り込み、階数を示すデジタル数字を見詰めながら思考を続けた。  そのそもあの化粧は、いったい何のため――?  真琴は、何度も同じ疑問を頭の中で繰り返していた。そして、スマホで『死体 化粧』のキーワードで検索しているうちに、気になる可能性をひとつ見つけていた。死化粧だ。  高校生の頃、祖母が亡くなった。普段は化粧をしない人だったが、通夜の席に横たわる祖母の顔は綺麗にお化粧が施されていた。真琴は化粧気のない祖母の顔ばかり見ていたので、祖母が亡くなったという実感がいつまでも湧いてこなかったのを憶えている。  ただ、犯人が死化粧を行ったならば、いったい何故そんなことをしたのか。亡くなった被害者を少しでも美しく見せたかったからか、腐敗し崩れていく姿を第三者に見せるのが忍びなかったのか。ならば犯人は、そんな感情を抱くほど被害者と近しい関係にあるということか。となると、あの残酷な殺害方法をどう理解すればいいのか。
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