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エレベーターを降り、応接室とプレートが貼ってある扉をノックした。病院に事情を説明して武夫から話を訊く場所を借りていた。
扉の向こうから反応はなかった。真琴はしばらく待ってからノブを回した。
すでに平野武夫は中にいた。雨の中ではよく見えなかったが痩せた男で、上下とも白い線の入った紺色のジャージ姿に着替えていた。ソファに腰を下ろし前かがみになってうな垂れている。白っぽい照明の中、武夫の周りだけ影が落ちているように見えた。
「失礼します」
真琴は身分証を示して武夫の向かいに腰を下ろした。隣に丸藤が座る。武夫に反応はなく、俯かせた頭が上がる気配はなかった。
「平野武夫さんですね」
真琴はできるだけ事務的な口調を心がけた。武夫の心情は理解していた。だがその気持ちに寄り添うのは刑事の役割ではない。自分たちの目的はあくまでも事件の速やかな解決だと、被害者の親族に向き合うときいつも自分に言い聞かせていた。
真琴は順を追って質問をし、消え入りそうな声で答える武夫の言葉通りに手帳に書きこんだ。メモは簡潔に取れと先輩刑事から指導されたが、聞き取った言葉のまま書き込んだほうが後から読み直したときに、当時の記憶が鮮明に思い出せることに気がついた。
これはメモの取りかたが習慣づいた後で聞いた話だったが、天才肌だった父はメモをいっさい取らず、それでも聴取の内容を完璧に憶えていたという。その話を聞いて、真琴はますます今のやり方を変える気がなくなった。と、いうよりさらに細かくメモを取るようになった。だから真琴のバッグパックの中には常に使用している手帳と予備の手帳が二冊入っている。ひとつの事件が解決するまでには最低五冊くらいは手帳を使いきる。
「奥様から返信があったのは何時ごろですか」
「昼の一時過ぎくらい。飯を食ったあと、毎回送ってるから」
「その後に送ったメッセージに対して返信がなかったので、異変に気が付いたと」
「そう。普段はすぐに返信があるのに、今日は既読にもなんなくて……」
部屋の中から被害者のスマホは発見されていなかった。犯人が持ち去った可能性もあるため通信会社の協力を得て位置情報の確認をしているが、追跡ができないと聞いていた。スマホは電源が落ちても位置情報の入手ができるので、おそらく犯人が破壊したのだろう。
真琴は武夫の言葉に頷き、壁の時計に目をやった。聴取を始めてから三十分が過ぎていた。武夫の心情を慮れば、できるだけ早く終わらせてあげたいと考えていた。
「平野さん、もう少しだけ訊かせてください。亡くなった奥様の顔をご覧になって別人だと思ったとのことですが、それほど普段の顔と違っていたということですか」
武夫が小さく頷いた。
「ルミちゃんはあんな顔じゃない。ふだんは結構がっつり化粧するほうだから、化粧してるときとすっぴんではかなり違うんだけど……それでもあんな顔じゃない」
「部屋に写真が飾ってあるのを拝見しました。普段はあの写真のような化粧をしてらっしゃったのですか」
「最近は体のだるさとかもあって控えてたんだけど……そう、あの写真の感じ」
続けて被害者の一日の行動や交友関係も訊いた。だが武夫は妻の交友関係ついてあまり把握しておらず、妻の行動に関しても最近は買い物以外の外出をせず、もっぱらユーチューブなどの動画を見て家で過ごしている程度のことしか聞けなかった。
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