人魚姫

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※この作品は、アンデルセン作『人魚の姫』のオマージュです。  暗闇に、ひやりと、つややかに月の光を映す短刀が、今、私の手に握られている。今しがた暗い海の波間に消えたお姉さまたちが、ご自分の美しい髪と引き換えにして、私に与えたものだった。根本からぶつりと切られた髪はもう、波にうねることもない。船を見上げるその悲しい顔は、失われるものに思いを馳せている。それは、これまで育んだ海底での家族の幸せ、そして私の命だった。  夜の闇に包まれた船上で、沈みゆく月のわずかな光を体に受けながら、私は手の中の短刀を見つめた。細い柄には赤黒く透き通る小さな宝石が五つ嵌め込まれている。その宝石が、お姉さまたちの切ない顔に重なった。 「朝日が昇りきらないうちに、この短刀で王子の心臓を突き刺さなくてはなりません。王子のあたたかい血があなたのその足にかかれば、また、魚の尻尾が生えてくるのよ」  また、人魚に戻ることができる。  お父さま、お婆さま、そして姉たちと共に、また海の底で暮らす。人魚の命は三百年。その三百年ののち、死んで海の泡となり、消滅する。それは限りある命。  私はかつて海の底で、お婆さまから聞かされた話を思い出していた。人間の持つ、死ぬことのない魂についての話だ。  人間の一生は、人魚のそれよりも短い。それどころか、嵐の海に投げ出されればたちまち波にのまれて死んでしまう。しかし人間には、いつまでたっても死なない魂というものがある。肉体が死したのち、土に還ったあとも、それは生き残っている。 「生き残った魂はどうなるの?」 瞳の中に小さな太陽を宿らせながら、私は訊いた。 「澄んだ風に乗って、キラキラと輝きながらお星さまのもとまで昇っていくんだよ。そして、それはそれは美しい天国という場所に、いつまでも魂として存在するんだ」  死ぬことのない魂。それは私たち人魚が知ることのできない天上の世界。  十五の歳を迎えた夜、海の上に浮かび上がって見た、空いっぱいに瞬く星たち。時折、雲に翳る満月に遠く引き寄せられる思いがした。何度も、王子恋しさに海上へ顔を出し、空から降り注ぐ太陽の光を浴びた。この世のものとは思われぬほど美しい星空や、陽の光のその先に、まだ知らぬ永遠の魂の世界がある。それは私の胸を躍らせる、憧憬に身もだえるほどの存在。  そのとき、お婆さまは言った。 「人間の中の誰かが、心の底からおまえを愛するようになって、いつまでも変わらない愛をかたく誓い合ったとき、おまえの体の中に、その人の魂が流れ込む。そうすれば、おまえも死ぬことのない魂というものを持つことができるんだ。だがそれは決して叶わない。なぜなら人間が、人魚のおまえを愛することなどあり得ないのだから」  お婆さまの言葉は、まさしく本当だった。  今、私が恋する王子さまは、互いに結婚を誓った美しい姫を胸に抱いて眠っている。新しい夜明けを夢に見ながら。  このまま夜が明ければ、私は暗い海の泡になって消えてしまう。光を感じることも、幸福も痛みも思考の全てが失われ、潮辛い水に溶けてなくなる。  幼い頃、真っ青に透きとおった硝子のような、どこまでも広い海の中を泳ぎ回った。海底の砂地に住む生き物にキスを投げながら、小さな魚たちの群れの合間を通り抜ける。手のひらを差し出すと、魚たちは次から次へと集まって、細い指をつっついてきた。その、こそばゆい感触。ヒレをなでる心地よい海の温度。はるか上方、水に小さく透ける太陽を背に、どこまでも降りていくと、珊瑚で造られた、人魚の国の城がある。  威厳があり、温厚なお父さま。何でもご存知で聡明なお婆さま。そして、心優しく美しい五人のお姉さまたち。城の大広間で一日中遊んだ、平穏で豊かな日々。  陽の光が届かずとも、そこには愛があった。愛で溢れていた。その全てを捨てて、今私はここにある。  人間の足がほしい、そう願った私にあの魔女は親切にもこう呟いたのだった。 「バカだね。その傲慢さは、不幸へと続く道だよ」 その呟きは少しも私の心に響かなかった。ただ、海上で見た王子の美しい横顔、黒い宝石のような瞳だけが、私の心を満たしていた。  そのとおりでした、今になって私は思う。血が滲むほど心に刻む。幼く拙い、我儘な私の恋。  もしも、最初から人間に生まれていたのなら。傲慢な心のまま、考えずにはいられない。もしも、当たり前のように足の生えた肉体を持って生まれていたのなら、王子は私を愛しただろうか。失うことのなかった透きとおるような美しい声。肩にとまった小鳥のさえずりのように、あなたの耳もとで歌うのに。思う存分、愛をささやくのに。  深く深く落ち込んだ闇が、私の頭の先から足元までを染めていく。甲板の真ん中に張られた豪華なテントの前に、私は立った。紫色のベルベットの緞帳に、いくつも金色の装飾が縫いつけてある。垂れ幕を引き上げると、シャラリと金属の擦れる音がわずかにした。  ゆっくりと、テントの中へ体を潜り込ませる。手の中にある短刀は、空気のように軽く、しかしその存在を示すように刀身に映る光を跳ね返していた。  淡いオレンジ色の炎を閉じ込めたランプが、赤い絨毯を敷いた床をユラユラと照らしている。船が波に揺れるたび、それに合わせて炎もゆらめく。初めて人間の世界に足を着けた時、城の外に焚かれた松明の炎に目を奪われた。海の底には決してないものだった。それは太陽に似たぬくもり。私の憧れそのもの。  一歩、また一歩と、私はベッドへ近づく。足の裏が床に触れるたび、堪え難い激痛が体を貫く。足を手に入れたその瞬間から、この痛みは私と共にあった。王子と城の庭を散策したとき、大広間でダンスを披露したとき、どんなときも、私は痛みと共に、人間になれた喜びを噛みしめていた。この世の不条理を一身に受けながら。  暗闇の中にぼんやりと、王子の艶やかな黒髪が見える。それは絵画に描かれた夜の海のように、緩やかに波打って、王子の呼吸に合わせ、わずかに震えている。私は王子の額に手を伸ばした。髪をそっと掻き分け、そのまま王子の美しい額に唇をあてた。隣では、花嫁が静かな寝息を立てている。二人は寄り添い合い、この世の幸せの全てを手にしたかのように、穏やかな面持ちで眠っていた。  私は、短刀を握りしめた。  人間になりたかった。人間に生まれて、あなたと愛を誓い合い、添い遂げ、そして共に、永遠の魂の世界で生き続けたかった。でも、あなたの瞳は、少しも私を捉えてなどいなかった。足を手に入れ、再会したときも、あなたは私を通して、まだ知らぬ花嫁の姿を見ていた。そして、あなた方はとうとう巡り会えたのですね。それが定めなのだとしたら、何という幸福な定めなのでしょう。  垂れ幕の隙間から空を見上げる。水平線がわずかに赤く染まって、じわじわと空を押し上げていく。私は鋭い短刀の先端を見つめた。全ての運命を断ち切ってしまいそうなほど、それは鋭利で冷ややかだった。  そのとき、王子が夢の中で花嫁の名前を呼んだ。わずかに身じろぎし、花嫁の肩を抱き寄せ、また眠りに落ちていく。私はどうしてか、愛おしい気持ちでそれを見た。王子が最初から、私を通して花嫁を見ていたのと同じように、私もずっと、あなたへの恋の、その先を夢見ていたのだ。肉体の死を超えた、その先にある、永遠の魂を。死ぬことのない魂の、穏やかな世界を。  朝日が、海と空を分つ。  まるでそれは、この世とあの世を隔てるように。  ーーーあぁ、私の心は、決まっている。  私は短刀を遠い波間に投げ捨てた。落ちたところが血しぶきのように赤く光って、海に溶けていった。そして自らも海に飛び込む。水の中で、体が溶けて泡になっていくのを感じた。  そのとき、体中があたたかいぬくもりに包まれて、朝日の光に照らされた。私はうっすらと目を開ける。キラキラと光る透きとおった何かが、何百と私の体を取り囲んで、一緒になって少しずつ上へ昇っていく。それは私の耳元で、まるで美しい音楽のようにささやき、軽やかに漂い、遊ぶように舞う。  空中を漂いながら、私はその何かに尋ねた。 「私はどこへ行くのでしょう」  胸の中に響くような不思議な声だった。 「空気の子たちのところへ行くのですよ」 皆が口々にささやく。その声は風のようになびいて、私の体に流れ込む。 「人魚には、死ぬことない魂がありません。いつまでも生き続ける魂を得るには、人間に愛されるほかありません。わたしたち空気の子にも、死ぬことのない魂はありません。しかし、よい行いをすれば、それを授かることができるのです」  瞼を閉じると、瞳の奥の方にまで、光が差し込んでくる。 「人魚の寿命である三百年のあいだ、できるだけのよい行いをするのです。暑い国へ行って涼やかな風を送り、空いっぱいに花の香りを届けるのです。誰もが健やかに、心地良く過ごせるように」  胸の奥がじわりとあたたまる。ぬくもりが体中から溢れ出し、流れていく。このぬくもりもどこかに届くだろうか。ほんの少しでも、誰かを救うだろうか。私は太陽へ手を差し伸べた。恋焦がれた、尊い存在。そのとき、生まれて初めて、頬に涙がつたうのを感じた。涙は真珠になり、王子のいる船上へ落ちていった。  船の上では、王子が花嫁に寄り添い、心配そうに波間を見つめている。私はふわりと花嫁に近づき、その額に優しくキスをした。王子の髪をそっと撫で、それから、空気の子たちと共に、薔薇色に染まる朝焼けの雲のほうへ昇っていった。  足元に落ちた一粒の真珠を、王子は拾いあげる。朝日に透かしてみるとそれは虹色に輝き、どこまでも光を吸い込んだ。王子はそっとそれを、花嫁の髪に飾った。花が咲くように、顔をほころばせ、二人はほほえみあった。 (了) 参考文献『人魚の姫(童話集1)』アンデルセン 矢崎源九郎訳 新潮文庫
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