116人が本棚に入れています
本棚に追加
クラリッサは穏便な婚約解消を望む
「クラリッサ!」
中庭を通って特別教室棟へ向かっている途中、大声で名前を呼ばれたクラリッサは前方から眉を吊り上げた婚約者レックスと、彼の現在の恋人が向かって来るのを確認して眉を顰めた。
「クラリッサ! 昨日エブリンさんの机の中から教科書を持ち出して、破った上に教室のごみ箱へ捨てただろう!」
「私が? 彼女の教科書を破った?」
身に思えの無いことを決めつけられ、目を丸くしたクラリッサは首を傾げた。
「お前は昨日当番だった! 他の生徒よりも遅い時間に校舎内にいても言い訳できる! もちろん、誰もいない教室に入り込むこともな!」
「はぁ、そうですか。ですがレックス様。私にはエブリンさんに嫌がらせをする理由などありませんよ」
「理由だと? あるだろうが。俺がエブリンと親しくしているのに嫉妬し、嫌がらせを行ったに違いない!」
「嫉妬、ですか?」
鼻息を荒く言われて、クラリッサの口から乾いた笑いが出る。
「嫉妬なんてしていません。少し前は私と婚約しているのに、堂々と何人もの女子とお付き合いするレックス様の考えが理解出来ず、仲良くしているのを見る度に腹が立っていましたけど、今は何も感じません。むしろ、何度も恋人を変えて、学園内で堂々と仲良くされているのは凄いなと、エブリンさんとはお互い夢中になって授業に遅れて来るくらい愛を深めているのは凄いと、感心しているくらいです」
ブフッと、遠巻きでやり取りを気にしていた生徒が噴き出し、数人の生徒から失笑が漏れる。
婚約者がいるのに、他の女子と人目を気にせず仲良くしているレックスは、ある意味有名だった。
「な、何だと!?」
周囲からの視線に気付いたらしいレックスの顔を真っ赤に染まり、俯いたエブリンは彼の隣から後ろへと一歩下がった。
「婚約を解消するおつもりでしたら、いつでもかまいません。ですが、濡れ衣を着せるのだけは止めていただけますか?」
「濡れ衣だと!? このっ」
バシャーンッ!
「きゃああっ!」
「うわっ何だ!?」
「窓が開いているからあの教室から倒れたんだ」
声を掻き消す勢いで、校舎の上階からレックスとエブリン目掛けて濁った水が降り注ぎ、周囲にいた生徒達は口驚きの声を上げた。
ガンッ!
ずぶ濡れになって唖然とするレックスの頭に、遅れて落ちて来たバケツがすっぽりとはまりよろめいた彼の姿を見て、クラリッサは堪えきれずに笑ってしまった。
「うわぁ」
「バケツが降ってくるとか、あははは!」
周囲にいた生徒達からも笑いが起こり、数人の教師達が職員室から出て来るくらいの騒ぎになった。
教室の窓から落下したバケツに入っていた、汚れた水をかぶって全身ずぶ濡れになったレックスとエブリンは教師達に連れて行かれた。
二人の姿は放課後まで見かけることなく、平和な一日を過ごせたクラリッサは上機嫌で寮へと戻ったのだ。
「ラドさん、聞いてください。婚約者殿を潰してきました! あっ、突然すみません」
魔石を通した会話の第一声は、こんばんはではなくレックスを潰したという言葉で、クラリッサは口に手を当てる。
『潰したのは空っぽの頭か? それとも腕か?』
「え、物理的にではなく、心を潰してやりました。私に言い返された上に、窓の側に置いてあったバケツが婚約者殿の上に落ちて来て、ずぶ濡れになったんです。大勢の前で恥をかいて恥ずかしそうにしていたから、ざまぁみろな気持ちになりました。このまま婚約を解消してくれればになぁ」
頭にバケツをかぶった姿は、今思い出しても笑いが込み上げてくる。
心配よりも先にざまあみろという感情が出てくるとは、相当レックスに対しての鬱憤が堪っていたらしい。
『フンッ、その程度だったか。つまらんな』
「その程度って、もう!」
大勢の生徒達の前で無様な姿を晒したレックスからしたら、泣きたくなるくらいの大惨事だったと思うのだが、ラドはつまらなそうに鼻を鳴らした。
『阿呆な男との婚約など、早々に破棄してしまえばいいだろう』
「だから」
『出来ないのなら、俺が代わりに潰してやろうか?』
ラドの声が一段と低くなり、魔石がびりびりと振動した。
「え、怖いことを言わないでください。婚約者殿は残念な方でも、ご両親はとても素敵な方々なんです」
ナリエッティ侯爵夫妻は、幼い頃からクラリッサのことを可愛がってくれた。穏やかな夫妻から、横暴なレックスが生まれたのが不思議でならない。
『では、近いうちに俺が婚約をどうにかしてやる』
「ふふっ、解消出来たら嬉しいですね。楽しみにしています」
落ち着いた声とラドという名前か愛称か分からない呼び名以外、どこの誰とも知らない相手。
社交辞令でも、自分のことを気にしてくれるのは嬉しくて、クラリッサは通信が切れた魔石を胸に抱いた。
最初のコメントを投稿しよう!