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 集合場所に着いたのはぼくが先だった。  天気はというと曇り空。快晴ではぼく、もといぼくらの体力がもたないだろうし、雨では足元が悪くなって危ない。  いずれにせよ、念を入れてレインコートを持ってきておいて良かった。森林公園なんてのどかな名前だけど、実際は申し訳程度に広場や東屋が整備されているだけの、森と変わらない場所だ。入口のゲートもあってないようなもので、吹き溜まった砂や泥で見た目もおどろおどろしく、石柱の開園記念という文字はコケや雑草で文字が見えなくなっている。開発が進んでいない自然が残る場所、と言えば聞こえは良いけれど、整備もおろそかに持て余している証拠だ。  待っている時間は気持ちがそわそわしてしまって、無意味にリュックの荷物を何度も確認してしまう。レインコート、傘、飲み物、タオル、そして妹のユリクトが作ってくれたサンドイッチのお弁当。  お弁当は自分で用意すると言ったのに、ユリクトがぼく以上に張り切って早起きをして持たせてくれた。あまりにも頑張るので、熱でもあるのかと心配になってしまった。 「だってお兄ちゃん、ちょっとだけ食べる量が増えたでしょ。なんか嬉しくって、食べてほしいな、って! ありがとうのかわりに!」 「食べて……あいつに?」 「あの転校生の人が来てからだもん。食べるようになったの」  学校の規模が規模だから、転校生の話は一気に全校へ広まってしまう。父親がエアロビークル工場の所長ということもあって、きみに対する注目の度合いは普段とは違っていた。 「―それとこれと、関係あるのかな」 「っふふ、お兄ちゃんったら変なの。仲良しな友達と食べるご飯が、おいしくないわけないじゃない!」  仲良しの友達、か。  口にするとくすぐったい。 「ごめんエギナル! 寝坊しちゃった!」  きみがやって来たのは、待ち合わせの時刻から十分過ぎたころだった。焦っている声色に反比例して、その足は歩くペースのままだ。なのに、まるで長距離走の後のように息が荒い。肩が上下していて、ぼくは早くも危機感を覚え始めていた。成功するんだろうか、これ。 「急がなくてもよかったのに。少し休んでから行こうか」 「へへ、ごめんね。走ってきたんだけど、途中で力尽きちゃった」 「お互いに運動、得意じゃないんだし。ゆっくり行こう」 「うん。ありがと」  水筒の水を飲んで一息つくと、きみは「よおし!」と両手を空に突き上げた。 「……何事?」 「気合い入れたんだよ、気合い。昆虫、見つかるといいね」 「そうだな。どうせなら、でかいやつ」  ゲートをくぐるとき、石柱の近くで何かが光ったのが見えた。  近寄ってみればそれは、茶色と黄色の中間の色の、親指の爪くらいの大きさのレプリカだった。名前は知らないけれど、家の近くでもよく見かける虫だ。図鑑でしか見たことのない「カブトムシ」のメスに似ているといえば似ているかも。大きさは……多分、全然違う。カブトムシはこんなに小さくはないんだっけ。  前を行くきみは気づかずに通り過ぎて、止まったぼくを振り返る。 「ごめん。レプリカだよ」  だけど、こんなにすぐレプリカが見つかるなら、本物もあっという間に見つかるのかもしれない。 散策ルートの中間に達したあたりでちょうど昼になったので、小さな東屋で昼食をとることにした。最初の心配は杞憂だったみたいだ。高いテンションと軽やかな歩調のまま登ってこられた―相変わらず、レプリカ以外の昆虫は見つけられないでいるけど。それに、テンションが高いのはきみだけだ。きみのはしゃぎようを見て、ぼくは冷静になってしまったところがある。  ぼくがサンドイッチ、きみがおにぎり。半分ずつ交換しようときみは言って、ぼくの顔を窺ってから付け加えた。 「今食べなくたって平気だよ、梅干しが入ってるから長持ちするんだ。梅干しには殺菌作用があるんだよ、知ってた?」 「そのくらいはね。……足りる? ぼくのも良いよ、はい」  つき返すと、きみは口いっぱいにおにぎりを頬張ったまま首を横にぶんぶん振った。頭がもげそうだ。  しっかり飲み込んでから、語気を強めて、 「だめだよ、まだまだ探さないといけないんだから、食べないと途中でお腹すいて倒れちゃう」 「水分はとってるし、このくらいでちょうどだ。……ええと、ぼく、一つ下の妹がいるんだけどさ。実はこれをきみにも、って作ってくれて。食べてほしいって」 「妹ちゃん? ぼくに?」 「そう。そのー、日頃の感謝を込めて、みたいな……」  何と説明したものか、歯切れが悪い言い方になってしまった。きみはぼくの顔とサンドイッチとを何度も見比べて、くすりと小さく笑う。 「そっか。じゃあ、おいしく食べるね」  まずはたまごサラダが挟んである、耳つきの一切れに手を伸ばす。いただきますを呟いて、最初の一口で半分にぱっくりとかみついた。  大きくふくらんだ頬はまるで小さいげっ歯類だ。両頬が元の大きさに戻る頃には、きみの目はきらきら、今まで見たことがない色になっていた。 「おいしい! すっごくおいしいよ、こんなにおいしいサンドイッチ初めて!」 「そ、そう?」 「うん! ふわふわでほんのり甘くてやさしくって、だけどピリっとする……辛子かな、あとシャキシャキしてて、すっごくおいしい!」 「それは良かった。一切れで足りる? はい」 「ほ、ほんとにもっと食べていいの? ほんとに?」 「ぼくはお腹空いてないから……きみにって作ってくれたんだし、食べなよ」 「食べる! いただきます! ふふっ、妹ちゃんにお礼、直接言いたいな。言わないとね、すっごくおいしかったよって。そんでまた作ってほしいなぁ」 「伝えとくよ。あいつも喜ぶ」  ぼくは未だひと切れ目の半分を片手に持ったまま、ぼんやり麦茶のボトルに口をつける。  おいしいものを食べたときって、こんな顔になるんだっけ。  ものが食べられなくなってから一年とちょっとしか経っていないのにすっかり覚えていないことにかえって驚いてしまった。  去年の今頃は水を飲むだけで気持ちが悪くなって、一週間くらい入院する羽目になった。食べられなくなったきっかけはよく分からない。でも、感覚ははっきりと覚えている。  自分の体が自分のものじゃないみたいだった。手足を動かしたり、話したりと同じようにできていたはずの「食べる」が急にできなくなった。できなくはないんだろう。後々やってくる、吐き出したい衝動を無視すれば。特に食欲があるときは最悪だ。最初はどうすれば良いか分からなくて、入れたものをすぐに出していた。当たり前のことがままならない。それが悔しくて、情けなかった。 「あのねぇ、聞いたことがあるんだよ」  きみはしっかりおにぎりも完食したらしく、指についた大きな米粒を味わってからぼくの方を向いた。 「あれを食べたい、これを食べたいって人間の欲望にまつわる話は、古今東西山ほどあるでしょ。毒があるけどおいしいものを食べるために、まず毒の勉強をしたりね。食べ物だけじゃないけど、人はさ、好奇心とか探究心とかで生きてるんだって。けっこうなお年寄りでも元気に暮らしている人は、好奇心で生きてけるんだって。面白いよね」 「へえ。言われてみれば納得できるかもな」 「ふふ」  きみは首を傾けてぼくの目を覗き込んでくる。髪の毛と同じ、色素の薄いまつげが不自然にまたたきを繰り返す。手が届かないならそう言えよ。ぼくはテーブルにあった水筒を渡した。 「ありがと。……つまり子どもや若者が好奇心を失えば、それはそれでおしまいってことなのかな? 知りたいとか気になるって思ってなきゃ、生きてないのとおんなじ。言葉の裏を返せば、そういうことだよね」  だったら、本当に生きている人はこの世に一体どれくらいいるだろう。  疑問に思ったことは、様々な端末に組み込まれた検索システムが瞬時に調べてくれる。朝起きるタイミングや朝食のメニューは、枕や目覚まし時計に内蔵されたバランサーの計算結果だ。夕食だって、昨日のうちに頼んでおけば、配達されてきたレシピと材料で、お腹がふくれて経済的で衛生的で栄養バランスのとれた食事ができる。好みだとか、冷蔵庫に眠るしなびかけた野菜だとかは考えなくていい。  それが毎日。ぼくが生まれたときよりもずっと前から、医療特区ではこうしたシステムが生活を作っている。  始まりがいつだったかなんて、大人は覚えていないだろう。どんな非日常も日常になってなじんでしまえば、違和感も消え去ってしまう。便利なものはなおさら。 「父さまがぼくらくらいのときには、自由研究っていうのがあったんだって。夏休みの課題で。自分で科学的なテーマを選んで、観察とか実験の結果を提出するんだ。植物の生長日誌、雲の流れの観測、色素の分離研究に自作のラジオ、昆虫採集」 「そうなのか。……良いね、やってみたかった」 「うん。ぼくも」  今はそんなこと、求められていない。  植物は温室で一週間かそこらたてば勝手に育つ。ここは田舎だから青空も見えるけど、大抵の地域は排気ガスやスモッグや、高層住宅で遮られてめったに見られない。ラジオはオールドファッションな趣味でたまに聴くものだし、ディレクタは生態系を保護し、甚大な被害が出る災害の発生も食い止めている。おかげで生態系は「適度な緊張状態を保ったまま」大きな変化を起こしていないし、ぼくらは昆虫とレプリカの区別がつけられない。  ぼくらはまだ死んでいないのだろうか。  いつまで、生きていられるのだろうか。 「あはは、変なこと言っちゃった。気にしないでね」 「……前と同じだ」 「前?」  水筒のフタをしめながらきみは聞き返す。ぼくは残ったサンドイッチの一かけらを流し込んで、口を手の甲で拭いた。しょっぱくて、泥の匂いがした。 「図書館で、雨の日。きみはなんだか変だった」  きみは途端に表情を硬くする。 「そんなことない。気のせいだよ」  ぼくが口を開く前に、きみは立ち上がって大きく伸びをした。はぐらかされた、と気づいても遅い。  話を聞いているつもりになっていて実際は肝心なことなんて何一つ聞いていなくて、きみが言いたいことを言えていないのだったらすぐに謝るのに。でも、触れてほしくない話だとしたら、と無理強いするのは気が引けて、ぼくは大人しく黙ってしまう。  さあ行こっか、日が暮れちゃうね。 そう言うきみは普段と変わらない。  ぼくの見間違いでありませんように。  そんな思いはすぐに、裏切られてしまうのだけれど。  夕暮れが近づいても、見つかるのはレプリカばかりだった。  ばかり、とは言ってもそれだってほとんど見つからなくて、本当に生き物はいないんだ、と野生生物をろくに知らないぼくでさえ思ってしまう。 「エギナルは昆虫の他に、どんな生き物を見たことがあるの? クジャク?」 「孔雀……は、小さいときに動物園でなら。隣の隣の街の」  どうしてそんな特殊な動物が出てくるんだろう。野鳥でいいんじゃないか。スズメとか。……キジも、ぎりぎり見たことがある。もしかしてキジって言いたかったのだろうか。 「じゃなくて、野生でってことか。だったらネズミとかなら、学校の周りにもたまにいるし。あ、もっと前にここに来たときは大きい鳥を見たな……季節も関係あるのかな。節足動物っぽいのもいたし」 「節足動物?」 「足が何本もあるやつ」 「おぁ……あれかぁ」  両腕をさする。昆虫は良くても、あれは苦手なのか。 「やっぱりどこもレプリカばっかりなのかな……せっかく来たのになぁ」 「インドア二人にしてはよく来られたよ。途中で帰ろうかと思った」  不服ながら、きみのテンションに助けられた部分もある。 「えっそうだったの? ぼく、エギナルが意外と歩くの早くて大変だったよ」 「意外って、トロそうな見た目で悪かったな」  そう返すときみは、しゃがんで見つめていた木の根元から顔を上げる。口が閉じきっていない間抜けな顔。どこで引っかけたのか、左頬には切り傷があった。  それを教えようとしたとき、がさりと大きな葉擦れの音がした。 「えっ、なに? 今の」  きみは立ち上がって音のしたほう、道から少し逸れた茂みを見つめた。ぼくの腰くらいまで伸びたさまざまな植物が生いしげっていて、いかにも何かが隠れていそうな場所だ。 「なんか……いる、のかな?」 「音はしたな」 「―ぼく、見てくる!」  駆け出したきみはぼくの静止を振り切って茂みにもぐりこむ。エギナルは待ってて、と声がするけど、あたりは薄くオレンジ色に染まってきている。何かがいたとしても、こんな薄闇の中で探せるだろうか。  追いかけようと足を踏み出した瞬間、思っていた通りというべきか、きみの小さな悲鳴が聞こえた。  慌てて茂みに踏み込むと、地面のあちこちに木の根が出ているところできみは横向きに倒れていた。倒れている、というよりは寝転んでいる。  右足は靴が脱げて靴下には血がにじんでいて、全身に泥がついてめちゃくちゃというほかなかった。特に下敷きになっている右側は、服の元の色が全く分からなくなっている。 「うっわ……すごいことになってる」 「そうみたい。あー、そこの根っこに」  と、ひときわ大きな盛り上がりを作っている根を指差して、 「足が挟まっちゃって。抜こうとしたらバランス崩しちゃった」  見てるなら手を貸してよ、と無言の視線で訴えかけられて、ぼくは勢いをつけてきみを起こす。 「捻ってない? 足首、枝か葉っぱに引っかけたか」  血の出ている箇所を教えてやると、そうだねえ、と他人事のようにきみは言った。この見た目で痛くないんだろうか。 「そうだねえ、じゃなくて。他に痛いところは?」 「ううん。頭打ってないし、足捻ってもいないみたい」 「そうか。……暗い中じゃよく見えないから、とりあえず出よう。昆虫探しはまたできるよ」 「……だね。あーあ、ぼく、エギナルに迷惑かけてばっかりだ」 「迷惑なんて―」  茂みをかき分けて元の道に戻ろうとしたとき、きみがずっと左手をポケットに突っ込んだままだと気付いた。まさか、そのせいで転んだんじゃないだろう。もしそうだとしたら、言い方は悪いけれどあんまり自業自得すぎる。  いたずらが見つかったみたいな顔でもったいぶって、 「見る?」  きみはぼくに向かってその手のひらを開いてみせた。  緑色の、薄暗がりでも分かるくらい輝くその背中。  昆虫? 「―……いたんだ」 「ね、これ、レプリカじゃないでしょ? 本物だよね? ね?」  とりあえず舗装された道に出てから、小型端末のライトで照らしてボディを確認する。レプリカであれば、どこかに小さな個体番号の記載を見つけられるはずだ。触角、背中、頭、眼、両前脚に後脚、と確認してそうっとひっくり返す。これで腹に個体番号がなかったら、正真正銘の昆虫ってことだ。  きみが息を止めているのを感じて、自然と同じ行動をとってしまう。  腹部にライトを当ててくまなく見ると、 「……残念、だった……ね」  左側のふちに、ゴシック体の個体番号が、昆虫の緑にはそぐわない赤色で印記されていた。  レプリカだ。 「そっか。レプリカかぁ」  漏れ聞こえてきたつぶやきは想像していたよりもあっさりしていて、ぼくは思わずきみを見る。  案の定、きみの表情は声音とはかけ離れていた。 「ま、まぁ、こんなこともあるって」 「こんなことしかない、の間違いじゃないの?」 「……っそ、そんな泣きそうな顔するなよ。今のはぼくの言い方が悪かった。う、上手くいかないんだって多分。レプリカのほうがずっと多いんだしさ。そりゃ、大変な目に遭って見つけたのにレプリカだった、なんて嫌だろうけど」 「別に……大変だったとか、思ってない」 「じゃあ泣くなってば」 「泣いてない」  強情にしているのが何となく妹に似ている。つまり、言い合っても平行線ってことだ。 「分かった。きみは泣いてない。ぼくもがっかりしてない。これでいいだろ? ……な、早く行こう。夜になったら本当に出られなくなるよ」  まだ震えている目で頷いたきみをみて、ぼくは勇気づけようと肩を軽く叩いた。よく昔の映画なんかで見る仕草だ。ほら元気出していこうぜ、とかいう。芝居がかってて好きじゃないけど、無理にでも明るい気持ちになりたいときは効果があるのかもな、と思いながら軽く。  だから驚いた。  きみが、びくりとその身を引いたからだ。  まるでぼくが、思い切り力を込めて叩いたかのように。 「―あ、えと」  一歩下がったきみはあの笑い顔でごまかそうとする。でもぼくの目にはそれが、口元と目尻が引きつっているようにしか見えなかった。 「さっき痛めたんじゃないのか。肩? ちょっと見せて」 「いやだ」  ぼくの言葉をさえぎって、きっぱりと言う。アザならまだしも、ひどい打撲や打ち身になっていたらどうするんだ。あの動きじゃちょっと動かすだけでものすごく痛いはずだ。この期に及んで、迷惑をかけるのがどうのこうのって話じゃない。 「あのさ。きみがケガを隠して、ぼくがあとで責められるかもしれないだろ。そうなったら、きみだって困るじゃないか」  我ながら苦しいこじつけだったけど、かたくなに見せろと言うよりは効果があったらしい。  きみは目を伏せて、 「……少し痛いだけだから。それに転んだせいじゃないよ。ずっと調子悪かったんだ。でもそんなこと言ったら、今日の予定もやめにすると思って」 「それは……」  当たり前だと言うと、そうだよね、ときみは苦笑した。  さっきの歪んだ笑いよりはずっと笑顔らしい。 明かりのあるところへ移動しよう、と、ぼくたちはゆっくり散策ルートを下って、ゲートを抜けてすぐのところにある休憩スペースに移動した。ちゃちな外灯よりも、自販機の照明とその上に取り付けられた誘蛾灯のほうが明るくてまぶしいくらいだ。  二人分の荷物を―痛がっているのに持たせるわけにはいかない―ベンチに下ろして、隣のきみをまっずぐに見据える。こうでもしないと、きみは視線も話も逸らしてしまいそうだった。  見つけたレプリカの昆虫は、あの茂みに戻した。  レプリカなんていらないよ。とは、ぼくもきみも言わなかった。  きみは体をよじってぼくの視線から逃げようとするけど、引くわけにはいかない。あんな辛そうな顔をぼくは知らない。ぼくがものを食べられないことを、きみは知っている。だけどぼくはきみの何を知っているだろう。秘密にしているらしい何かを無理やり暴くつもりはないけれど、いつか、話してほしかった。  きみが言ってくれたから。たくさん話そうと。話を聞いてほしいと。 助けになるのなら、ぼくはいつまでも待っていられる。 「ごめんね。ありがと。……あのね。今日遅刻したの、メディカルボックスをいじってたからなんだ。いつもより多く痛み止めを出してくれるように父さまに頼んだんだけど、いいよって言ってくれなかったから。自分でいじるの、初めてだったんだよね」 「痛み止め?」 「うん。定期的に飲んでる」 「……知らなかった」 「でしょ。隠してたもん」 「ボックスをいじるっていうのはちなみに、どういう」 「んん? あれね、処方箋がなくても調節できるんだよ。多分違法なんだけど、やってみたらできちゃった」  メディカルボックスは、サーチマシンに登録された身体情報や、病院の通院記録をもとにして薬を作る家庭用の機械だ。軽く「いじる」なんて言うけど、そう簡単にできることじゃない。あらかじめ登録している常用の薬剤や身体の不調を解決するヒントを受け取るのが主な機能だ。基準値以上の量や強い薬を出せるようにいじるなんて、どうやったらできるんだろう。 「ずっと痛いってこと? 長いこと飲んでるのか」  目配せのような上目遣いできみはぼくを見る。  いつもと違う雰囲気に、思わず唾を飲み込む。吸い込まれそうな目を見つめ返す。透き通っていて何でも飲み込んでしまいそうな、底の見えないひとみ。 「初等部のころからずっと、かな。でも四六時中痛いんじゃなくて。年に何回か、すっごい痛むときがあるから」 「それが、今日も?」 「……だったら良かったんだけど。こっちに引っ越してきてからはほとんど毎日、痛くてさ。今まではこんなことなかったのに」 「どうして。どこが。肩? 首? 背中?」  身を乗り出したぼくの口元に、きみは立てた人差し指をかざす。  もう片方の、色素の薄い爪と指とが、ぼくが膝の上の握りこぶしを包む。ひんやりしたきみの手は、ぼくの頭も冷やしてくれるようだった。 「エギナル、なにを見ても驚かないって約束してくれる?」  まるで一生に一度のお願いみたいな響き。ムービーフォルダを探せばいくらでも見つかる、感動物語に出てくるセリフみたいだ。 「いいよ。約束する」  ぼくの答えに、きみはにっこりと笑う。おとなの乾いた笑みでも、困った笑顔でも、子どもみたいな笑い方でもない、ただの笑顔。いつも隣の席に座っているのに、初めて見る表情だった。  きみは即座にパーカーのジップを勢いよく下ろして引きちぎるように脱いで、濃い青色のシャツのボタンを次々に外していく。あっけにとられるぼくを無視して後ろを向くと、シャツをはだけて一番下に着ていたタンクトップをさらけだした。  真っ白なきみの肌は、暗がりの中でぼんやり光っているみたいだ。肩の部分をずり下げて、ほらね、と呟く。テストの点数を見せ合うときと同じ声音で。 「変形してきてるんだ、ぼくの肩甲骨」 「……」 「エギナル?」  やっぱり気持ち悪いよね、ときみが的外れに不安そうにするから、ぼくは首と両手を振って否定する。 「いやそんなの思ってないよ。思うもんかよ。……少しも驚かなかったって言ったら嘘になるけど。これ、普通に動かせるのか」 「普段はね。でもたまに動けないくらい痛くなる」  だからそういうときは大人しくしてるしかないんだ、ときみは言う。  背中の真ん中より上、肩甲骨のあたり。そこは一筋の曲線ではなく、ゆがんだ左右非対称の軌跡を描いている。きゃしゃなことを考慮しても、一般的な肩甲骨よりも全体的に外側にせり出している感じがした。首筋やうなじの、点々とした赤いあとは注射のあとだろうか。場所によっては赤黒い痣になっている。色白なきみの肌だから、余計それがはなやかな赤色に見えた。歓迎すべき色ではないのに、一瞬見とれてしまう。  きみが朝走ってきたときのことを思い返す。走って―歩いていた。今思うと、かなり不自然な格好だったかもしれない。  もし、走るだけでズキズキ痛むのに、無理をおしてここまで来たのだとしたら。ぼくの鈍感さにも程がある。気づけそのくらい、何やってんだ、気付く以外に何ができるんだ。医者でもないし、ぼくでは痛いのを和らげてやれないのに。 「ひどいときは歩くのも立ってるのも辛いんだ。前にさ、風邪って休んだでしょ? あれ、ほんとはこれのせいだったり」  そうやってまた、きみは笑う。ぼくは今度こそ少しいらついてしまうけど、それでも笑うなとは言えなかった。このいびつな笑顔は自分を守る防御線だって、もう知ってしまった。  地面の上ですら自由じゃないのに、きみの心はずっと、空にとらわれたままなのだ。  肩甲骨が疼くなんてまるで飛びたてない鳥じゃないか、とは、言えなかった。
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