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 何度も断るきみを押し切って、きみをおぶって公園を出た。ひどくふらついているのを見ていられなかったのだ。  きみは想像よりずっと軽かった。張っていた気が緩んだのか熱も出始めたようで顔が赤い。ぼくは夜になりかけの道を歩きながら何度も声をかけた。本当に軽かったから、ちゃんといるのか不安になった。  ぼくの家への曲がり角を通り過ぎて、エアロビークルの工場に向かう道を進んでいく。家の場所をきこうとしたら、こっちが良いときみが教えてくれた。 押しボタン式信号がある十字路にライトを持ったおとなたちが二、三人立っているのが見えた。すぐ後ろでは、旧式の電光掲示板が今日の天気予報を光らせている。  おとなたちは何かを探しているように辺りを見渡している。着ているジャケットの、少ない光でもわかる胸元のマークは工場のもので、近所のおじさんもいるようだった。  おじさんはぼくを目にとめ、目を一瞬見開いて駆け寄ってくる。 「来た! お前、帰りが遅いってユリクトの奴が心配してたんだぞ、あのな―」 「ごめんなさい。あの、早くこいつ、休ませないと」  ぼくの背中にいるきみを見、周りに集まっていたみんなはどよめいた。所長を呼んでこいと叫ぶ声がして、きみは荷物と一緒にすぐさま運ばれていく。何が起きたのか分からずにぽかんとしているぼくの肩に手を置いて、おじさんは言う。 「あの子が所長に何も言わないで出てったっつってよ、工場の連中が交代で捜索に出たんだ。午前中からほぼ一日中。……見つかって良かった。後でみっちり説教だな」 「総出ってこと? 仕事は」 「それどころじゃねえに決まってるだろ。ま、最低限の納品数は確保できてるから人を回せたんだろうが。おれも詳しくは知らねえ」 「ごめんなさい。ぼくら、迷惑かけて」 「なあに、そう何度も同じことをされちゃあ堪らねえが、今日に限っちゃお前達が無事だったって、それで良いんじゃねえの」 「でも」 「誰だって、家族に心配事があったら、そっちを優先させるに決まってる」 「―うん。あいつに、連絡入れたか確認しておけば良かった」  きみの体のことだって。前から知っていれば今日、こんなことにはならなかったのかもしれない。 「過ぎたことを考えたってしょうがねえさ。……あ、所長。この子です」  はっと顔を上げると、目の前には知らない男の人が立っていた。  ブルーグレーのスーツ、つやのある黒地のネクタイ。くせのありそうな髪の毛はきれいに後ろになでつけられていて、きみによく似た色素の薄い目がぼくを見つめ返す。射止める、と表現するほうが正しい、厳しい視線だった。固く一文字に結ばれた唇にも人を圧倒する感じがあって、ぼくは思わず奥歯に力を入れる。 「君が、エギナルくんかな」  ぼくは頷く。思っていたより柔らかい、優しそうな声だ。 「今日はあの子が迷惑をかけたね。申し訳なかった」 「いえ、あの」  おとなから頭を下げられたことなんてないから焦ってしまった。というか、こんな子どもに所長が頭を下げていいのか、イゲンがなくなっちゃうんじゃないか。それともこんな子供にイゲンも何もないか。  黙ってしまったぼくに、顔を上げた所長はほほえむ。口元も少しきみと似ている。 「君には普段から仲良くしてもらっていると、あの子も話していた」  ぽす、と所長はぼくの頭に手をおく。満足気によし、と小さく言うのが聞こえて、頭をなでられたと気づくのに時間がかかった。  おっかなびっくりというか。慣れてなさそうな仕草だった。  「君のお母さんはもう帰宅されたよ。妹さんが一人きりでは心配だからと。お父さんは工場に残っている。来るまでここで休むといい」 「え、でも」 「うん、遠慮はいらない」  目を細めると、所長はぼくのリュックをつかんで工場へ勝手に歩き始める。ちょっと強引なところは、親子で似ているのかもしれなかった。  所長がぼくを連れてきたのは、工場の「工場」部分じゃなくて「会社」の部分だ。当てはまる単語が見つからないけど、たとえば取引先の社長さんなんかと話をするときに使いそうな方だ。入口には、おしゃれな花瓶と額に入れられた不思議な絵とよく分からない布製の置物が飾られている。靴の泥を落としてからそうっと入った。  所長は三つ並んだエレベーターの前を通り過ぎ、「休憩室」と書かれた部屋に入る。数台の自動販売機の他に、色落ちしているソファや、パイプ椅子と折りたたみ式の机が置かれていた。 「適当に座って。コーヒーは飲めるかい? ジュースにする?」 「いいです、いらないです」 「そう言わずに、はい」  手の平に缶コーヒーをねじこまれた。最上級の深煎り豆が何のかんの。飲める気がしなかったから、手の平で抱えて持つことにした。あったかい。汗が冷えたのと夜になったのとで、体が冷えていたみたいだ。  所長は自分でも同じ商品を買って、机をはさんだ向かい側に腰かけた。ぱしゅ、とプルタブを起こす音が響く。 「寒くないかい。暖房も入れようか」 「いいえ、ちょうどなので……所長は、暑くないですか?」 「クーラーで冷え切っていたのでね、ありがとう。ところで……こんな尋問みたいな真似は止したいところだけど、あの子から私は、何も聞いていないものだから。そんなに泥だらけで、今日の行先はどこだったのかな」 「森……、です」 「森? 森林公園か。近くに駅もあったね」  うなずくと、所長はあからさまなため息をついた。 「まったく。誰とどこに行くかくらい言ってくれていたら、私だって考えたのに」  所長は大きく息を吐く。きみは文字通り、何も言わずに来たのだろう。いきなり「痛み止めを増やしてほしい」なんて言われたら、そりゃ誰だってびっくりする。具合が悪いのかと心配にもなるはずだ。 「ハイキングにぴったりな場所らしいね。私も少年時代は、あちこちを駆け回ってはいたものだが。今の子もそうなのかな」 「虫を、見てみたいって」 「……あちらの街にはいなかったものな。そうか」  所長はこの工場へ配属されてからずっと一人暮らしをしていたそうだ。単身赴任というやつだ。その間きみは、おじいさんとおばあさんのいる港街で暮らしていたと、聞いていないのに教えてくれた。 「あの子と友達になってくれてありがとう。また独りぼっちになっていたらと。中々……周囲に馴染めないでいたから」 「転校、初めてじゃないんですか」  何度かね、と所長は低く言う。 「初等部に上がったすぐあとだったかな。学校では言うなと何度言い聞かせてもきかないんだ。空を飛べると言い張って」  嘘は言っていないのだけど、と所長は苦笑する。  ウソじゃない?  ぼくが目を白黒させているのに気づいたのか、所長は、 「飛ぶと言っても、鳥のように翼で飛び回るのではないよ」  茶目っ気を入れて両手をぱたぱたと動かしてみせる。面白くはなかったけど、所長だってぼくを喜ばせようとしたわけじゃないだろう。  それにびっくりしたのはそこじゃない。  まさか、所長も空を飛べるのだろうか? 「本当は飛んでいないのかもしれない。超古代のトランスめいた勝手な妄想かもしれないね。でもあの子たちは―あの子の母親の生まれた地域には、自分は飛べると証言する人が複数人いる。私は、それを信じている」 「信じられるのは、モトラドを作ってるからですか?」  少し意外だ。所長は飛べないみたいだし、エアロビークルのような科学技術ありきの機械を扱う会社の偉い人なら、空を飛べるなんて非科学的だと思いそうなのに。それとも、空飛ぶ機械が身近にあるからこそ信じられるのだろうか。自分の力で空を飛ぶことに憧れがあるとか。大人だから子どもみたいなことを考えちゃいけないって決まりはないし。 「それもあるけれど、愛した人の言ったことだからね」  所長はちょっとだけはにかんだ。 「あの子の母親、妻だがね、私を連れて飛んでくれたことがあるんだ。あれはすごかった。彼女もとても嬉しそうで―とても、綺麗だった」 「そ、そう、なん、ですか」  のろけだった。 「彼女はね、空を飛ぶ感覚は他者とも共有できると言っていた」 「じゃあ、あいつもまた空が飛べるようになったら、所長も一緒に飛べるかもしれないんですね。あいつのからだ、ちゃんと治れば」 「身体?」 「……肩甲骨を見ました」  所長は目を見開く。驚きの色はすぐに引っこんで、眉根にシワがよった。 「それは……驚かなかったかい」 「ううん、全然」  所長はただ察したように、深くうなずいた。 「妻がなくなった頃からなんだ。だから、もう随分長くなる」  いつか、きみが母親のことを話したときの違和感の正体。  やっぱり、きみのお母さんはもう、いないのか。  一緒に過ごしていないのではなくて、もう会えないって意味で。 「急に、空を飛びたいと言い出してね。しきりに言うんだ、練習がしたいから高いところに連れていけと。それから少しして―背中が痛い、と」  背中。正確に言えば、肩甲骨。  所長は大きく息を吸って言葉を続けた。 「痛みは徐々に収まったんだが、併発した諸症状も多くてね。およそ健康体とはいえない体にさせてしまった」 「……原因は分かってないんですか」 「あいにく。決定打となるような治療法もまだ確立できていないらしい」 「ここは医療特区なのに?」 「この町の医療は、既にある程度有効な治療法が分かっている症状に対するものなのだろう。未知の症状に効く術を探すのは、少し違っているらしい」  病院の先生方の話だよ、と所長は息を吐く。何度もきみに説明しているのかもしれない。言われるたびにきみは、いくら医療特区で暮らしていても、標準から外れたからだは治らないと、思い知らされてきたのかもしれない。 「妻の親戚にもあたって―飛べるという人も何人かいるからね―みたが、肩甲骨が変形するなんて話は一度も出てこなかった。医師には、あの子の心が体の状態に影響しているのではと言われたよ。飛びたいと思うあまり、体が誤解してしまったんだそうだ。自分が空を飛べないのは翼がないからだ、だったら翼を備えてしまえ、というふうに」 「でも人は鳥みたいに飛べない! だからエアロビークルがあ―」 「エギナル! ここにいたんだ」  がたりと立ち上がったぼくはそのまま、変に腰を浮かせた姿勢で止まった。休憩室のドアがない入口に目を向ければ、無地のシャツを着たきみが壁に寄りかかるようにして立っていた。 「って、なにやってるんだっ」  顔はさっきより赤いし、体も左右に揺れている。起きてていい状態じゃない。 「へへ。お礼だけ言いたくって、抜けだしてきちゃった」 「そんなのいつでも」  ぼくより先に、所長の黒っぽい影がぼくときみの間に滑りこむ。「戻りなさい」とやんわり、でもはっきり言うのが聞こえた。 「―父さまに話をしに来たんじゃない」 「いいから早く部屋に戻るんだ。熱があるんだろう」 「ぼくの体のことくらい、ぼくで分かってます」 「それなら、ほら」  所長はきみの左肩に、右手を乗せた。 「さわんないで!」  きみはぱしりと所長の手を払いのけた。ぎっとまなじりを上げて、一回り以上も大きな自分の父親をにらみつける。 「通して」 「エギナル君にも迷惑だろう。また夏休み中に会えるのだから」 「また会える? ……こんな体なのに?」  きみの声がいきなり大きくなって、ぼくはびくりと震えてしまう。 「だってさ、どうせまた入院しなくちゃいけないんでしょ! なに気休めみたいなこと言ってんの? せっかくの夏休みなのにエギナルと会えなくなるの、ぼくだって分かってる!」 「……お前が嫌なら入院はさせない。ただ、検査は」 「検査検査って、どれだけ悪化したかを調べるだけなのに。そもそもあのひとたちが医者なのかどうかも怪しいや」 「先生達は―」 「医者じゃないでしょ、頭のおかしい研究者でしょ? 異常が出ました検査しましょうって、ぼくは機械かなんかとおんなじってこと? 患者だなんて白々しいよ、研究対象の間違いだ。あいつらが見てるぼくはほんとに人間? ねぇ、あの扱いで、機械とどこが違うっていうの!」 「いい加減にしなさい!」 「……、っ」 「先生は最善の手を施してくれている。悪く言うのは止しなさい。それと、その、自分をぼくと呼ぶのはやめるように言っているだろう」 「うっ……る、さいなぁ!」  だん、ときみの小ぶりな拳が壁を叩いた。 「それは今関係ない! ぼく、の、ことなんかどうだっていいくせに! いつもそうだ、父さまはいっつも。……もう構わないで。父さまなんてきらいだ、みんなきらいだ!」  きみの剣幕に、所長は少し後ろに下がった。それを見てきみは部屋に入ってこようとするけれど、追いかけてきたらしい事務員みたいな人が背後からそっときみのからだをつかまえた。 「ばかばかばかばかぁ離せぇ!」 「あなた、安静にしていないと! 所長、すみません」 「離せってば、ねえ、おねがい―」  引きずられながら、きみは目だけでぼくにすがる。ぎらついていて、ひりひりと熱くて、焼けこげてしまいそうだった。  ぼくは、その場から一歩も動けなかった。 「……あの」  茫然としている所長に近寄る。所長はまたたきを何回かして、「あぁ」とガラガラになった声で返事をした。 「普段は―ああではないんだ」 「知ってます」  感情をむき出しにする姿を、ぼくも初めて見た。 「……妻に、どれだけ任せきりにしていたか」  家族なら、難しいことは考えず心配なんだと言えばいいと思うけど。それだけでは済まない何かが、きみと所長にはあるのかもしれなかった。 「ちゃんと仲直り、したほうがいいと思います」 「そうだな。―申し訳ないね」 「全然。ぼく、あいつの友達なんで」  はっきり言うと、所長は目を丸くしてすぐに細めた。いまさら目元の皺の深さやクマに気がついたけど、あんまり気にならなかった。  きみとそっくりの笑い顔。困ってるみたいな、曖昧な笑いかた。 「頼もしいね」 「……どうも」  ぼくにできることなんて本当にちっぽけで、しょうもないことばかりだ。きみと所長の間に割って入って、さあ仲良くして下さいなんて言えないし、カウンセラーみたいに的確なアドバイスだってあげられない。 それでも、まだ子供なんだからできることをこれから増やしていけばいい、なんて言葉に甘えて、溺れてしまうのはいやだった。  甘やかされてまだ自分は子どもだと思ってても、いつかいきなりもう大人だと言われる日が来る。そう思うと気が滅入る。泣いたり叫んだりすれば誰かが何とかしてくれると思いたくなってしまう。まさか、そこまで子どもじゃないけれど。喜怒哀楽がないふりをできるほど、おとなにもなりきれない。 「君は、少なくとも私よりあの子を分かってくれているんじゃないのかな」 「えぇ、いや」 「……空を飛ぶ話を、家の外でもしているとは思わなかった」 「え?」  あんなに得意げに自己紹介をしていたのに? 「言うらしいんだよ、最初はね。でも理解されないから、理解しようという風にも思われないから、否定されればすぐに押し殺す。……これまでは、そうだった」 「……ぼくのクラスでも、ほとんど誰も取り合わなかったです」 「だろう? きみは、あの子の一番の理解者だよ」  ぼくが、一番の?  きみを分かっている? いちばんに?  すごく嬉しいけど、でも、ぼくが一番なんて名乗っていいものなんだろうか。何度か転校しているきみにはあちこちに知り合いがいて、ぼくはその大勢のうちの一人に過ぎないんじゃないか。所長だって、ぼくが喜ぶような言葉を選んで、その気にさせてくれてるだけかもしれない。それに。 「だから―ぼくが理解者だから、色々話したんですか?」  きみのお父さんから一番だなんて言われて、嬉しくないと言えばうそになる。だけどこんなに私的なことを伝えるのは、何か他の意図があってのことなんじゃないかと構えてしまう。 それに―所長が、他人に子供を丸投げするような人間だったら。  ぞわりと、どろどろする感じが腹の底に溜まっていく感じがした。身体の重さ、だるさが、ぼくにささやく。辛いなら、吐き出してしまえばいいと。何もかもを外に出して、軽くなればいいと。  だけどぐっと力を込めて、気持ち悪さを留めた。 今、ぼくが楽になってどうする。 「ぼくはぼくで、あいつのことを信じてます。体も良くなる、空も飛べるって。だけどぼくはあなたになれません」 「……」 「あなたが心配するのも否定するのも認めるのも、全部あなたのものでしょ」 「―あぁ、そうだね」  言ってから顔が熱くなるのを感じる。ぼくはまた、余計なことを言ってしまったかもしれない。だけど言わなくちゃいけなかった。 所長が悪いとは思わないし、ぼくはぼくのやり方でしか、きみの友達になれない。他人の辛さや後悔を切り分けて、自分の気持ちに混ぜて軽くする手伝いなんて、そう簡単にできることじゃない。 「……私もね、信じているよ。妻のことを抜きにしてもね。人間だって空を飛べるんだ。モトラドを飛ばせたんだ、真に不可能なことなんてそうそうあるもんか―そう思ったほうが、視界が広くて心地よいだろう?」 「―はい、きっと」  所長は人間が空を飛べることを信じているにしても。  それはきみが、空を飛べると言うからなのだろうか。 「―エギナル! 待たせた―」  どたどたと大きな足音をたてて、父さんが息せきってやってきた。そして固まってしまった所長とぼくを交互に見て、「……お世話様です」とだけ、言った。 「うちのが世話になりました。すみません、本当に今日は、」 「いえいえ、こちらこそご迷惑をおかけしまして」  所長は姿勢を戻して、ぺこぺこする父さんに向かって同じようにお辞儀をする。その後も何回かすみません、とかこのお礼は、とかいうやりとりを繰り返して、父さんはぼくに「帰るぞ」と声を投げた。  ぼくはうなずいて、所長に頭を下げる。 「ありがとうございました。コーヒーも、ごちそうさまです」 「ああ、気を付けて帰るんだよ」 「その―帰る前に、なんですけど」  ぼくは目を上げて、父さんよりも高いところにある所長の顔を見つめた。 「あいつの顔、一瞬だけ、見てっちゃいけないですか」 「……どうしても?」 「お願いします」 「……」 「だめですか」 「…………エレベーターの奥に救護室がある。そこで寝ているよ」 「あ、ありがとうございます!」 父さんが「いいんですか」と驚いたように尋ねると、所長は肩を大げさにすくめた。 「このくらいはね。……この年頃は、何かと難しいですね」  おどけた声がしたけれど、父さんは「なるほど。そうですね、私の娘も……」なんて真面目に返事をしていた。  廊下は歩くとセンサー式のライトがつく仕組みになっていた。それもオレンジっぽい白だけじゃなくて、薄いピンクや水色、カラフルな色をしている。  エレベーターの脇には、「救護室」と看板がかけられた部屋があった。そっと取っ手を横にスライドさせると、さっきの人が出て来て「どうしたの」とささやいてくる。 「あいつの顔見たいんです。所長にも許可をもらいました」 「所長……あの人も何だかんだで甘いのよねぇ」  アンニュイな口調に断られるかと思ったけどそんなことはなくて、女の人はドアを押さえて中に入れてくれた。  薬のビンが入った戸棚と小さいテーブル、椅子があるところを抜けて、奥に並んだ二つのベッドの手前側へ。仕切りのカーテンを開けっ放しにしたまま、きみはそこで眠っている。  背中が痛むからかうつぶせになっていて、横向きにした顔には髪の毛が数束落ちている。冷却シートを貼った顔は、さっきよりもずっと具合の良さそうな色をしていた。よかった。 「おやすみ。こっちからも連絡するから。遊べるようになったら教えて。……じゃあ、また」  聞こえていなくても一応言っておこう。父さんをあんまり待たせるわけにもいかないし、戻らないと。 「……ん……エギナル……?」  ぎょっとして、ドアのほうを向きかけた顔を戻す。かろうじて見える左目がうっすら開いていた。 「ごめん、起こした? いいよ、寝てなよ」 「うん。あの、ね」  きみは身じろぎをして、かけられた毛布の中から手のひらを出す。それを小刻みに振って、「またね」とささやいた。 「こんなのなんでもないから。今日は迷惑かけちゃったけど、今度はエギナルがぼくに迷惑、かけていいからね。だからあの、―きらわ、ないで」 「嫌うもんか」  ほとんど空気になっているきみの声が震えているのが、この声の大きさでも分かった。  何てことを言うんだろう、こんなときに。何を心配しているんだろう。どうしてきみを嫌わなくちゃいけないんだ?  ぼくはきみと一緒にいたいから、一緒にいるだけだ。 「嫌いになんかならない。これからずっと。一生」 「一生? ふふ、そう」 「間違えた。きみが、嫌ってほしいと思わない限り」 「っふふふ。じゃあ、一生だね。……ありがと」  きみは腕をまた毛布の中に戻して、ことりと眠ってしまった。  電池が切れたように止まった声と動きに拍子抜けしながら、またおやすみを言って救護室を出る。  休憩室に戻って、またさっきのお礼の言い合いをして、父さんと工場を出た。  ここからうちまでは歩いて三〇分くらい。父さんは通勤用の自転車を引いて、ぼくに合わせてゆっくり歩いてくれた。室内では感じなかったけれど、湿度のせいでじわっと暑い。  父さんは上着を脱いで、雑にかごの中に投げ入れた。 「シワになったら母さんに怒られるよ」 「どうせクリーニングに出そうと思ってたところだ。……お前、怪我はないのか」 「ぼく? ない」 「そうか。良かった。―良かった」 「ごめんなさい」  ぼくだって、父さんと母さんに心配をかけていたんだ。森に行くことは言っていたけど、あんな騒ぎになってたんだから当然だ。 「無事ならいい。母さんが何て言うかは保証しないけどな」 「だね……」  母さんに口で勝ったためしはない。どんなことを言われても大人しく聞いているしかないだろう。  工場の周りの舗装されていない道から、気がつくと車通りの多い交差点まで来ていた。自転車のスポークの音と自動点灯のライトの光が止まる。あんまり意味のないスクランブル式の信号は、さっき切り替わったばかりみたいだ。  この辺りはほとんどが田んぼだ。日中あたためられた稲から、鼻の奥に残る香りが立ちのぼっている。 「夕飯はどうする。お前がそれまでには帰ると言っていたから、ユリクトも父さんに電話してきたんだぞ」  サーチマシンの時計機能を確認すると、もう九時になっていた。遅くても六時には帰るって言っておいたんだった。 「心配をかけたんだから、食べられるなら食べなさい」 「うん」  信号が変わった。洋服が体に張り付いたまま乾いてしまった部分をつまんで風を入れる。不快なのももう少しの辛抱だ。  ぼくはなんとなく右手を上げて、しょぼい街灯にかざした。工場で洗ったから、泥や草の汁は全部キレイになっている。よれよれになってしまった絆創膏をはがしたせいであらわになった、手の甲に残る傷を見つめた。  きみの背中にあった注射のあと。あれよりずっとよどんだ色だ。かさぶたの黒っぽい色と、新しく盛り上がってきている薄桃色が混ざって、そこだけ他の生き物みたいになっている。  このまま食べることをやめたら、体がどんどん軽くなって、そしていつか宙に浮けるだろうか。浮いたまんま、きみと飛んでいけるだろうか。 なんて妄想もいいところだ。ぼくが食べ物を断ち切ったって、飛べる可能性はゼロだろう。 所長はああ言ってたけど、物事には限界ってやつがある。たとえば、魚は努力しても地面の上ではそうそう生きられない。気が遠くなるくらい時間をかけて、肺を持つようになった魚もいるらしいけれど、それはけっこう例外的だ。哺乳類だって、魚から陸の生物に変わったから呼吸ができるようになったんだ。  空を飛べるきみも、飛べないぼくとは、本質的に違うのだろうか。 「エギナル」  持ち上げていた手を、父さんの大きな手がつかんで下ろす。 「……信号、変わったぞ。少し休むか」 「あ―うん。ごめん。大丈夫」  それ以上父さんは何も言わず、無言のまま家までの道を歩く。  今度きみと会ったときは、どんな言葉をかけてやればいいのだろうと、不確かなことを考えている自分が嫌になる。今度っていつだ。  足元に光る緑色のガラス片を、ぼくは思い切りけっとばした。
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