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 トマトやナス、ピーマン。うちの庭で育てている有機栽培の夏野菜を煮込んだスープは、母さん直伝のユリクトの得意料理だ。少しずつそれをすするぼくを母さんは「珍しいもんだわぁ」と言いながら頬杖をついて眺めている。 「自分から食べるって言い出すなんて。無理しないでね」 「……うん」 「父さんに言われたんでしょう」 「まあ」 「何て言われたのよ。教えてくれないの?」  帰ってきたぼくを見るなり「この不良息子」とか「よそのお子さんを危険な目に」とか「体調管理は生活の基本」とか、とにかくそんなことを聞かされて、風呂をすませてからやっと夕ご飯を食べられた。  父さんは「着替える」と言って部屋に引っ込んでしまったし(母さんから逃げたんだ、おとなってずるい)、ユリクトは母さんが来て安心したのかもう寝ていた。 「でも驚いたよ、所長のお子さんと仲良くなってるのね。あんたの友逹ハイリくんくらいしかいないでしょ」 「もっといるよ」 「そう。私が会ったことないだけかぁ」 「……うん」 「だったら、向こうの都合もあるとは思うけど、仲良くしなさいよ。……所長さん。転校してきて、友達ができてるかすごく心配していらっしゃったから」 「大丈夫。……できてると、思う」 「そうなの? あんたが言うなら心配はないかしらね」  母さんはにっこり笑って麦茶を飲みほすと、「お皿、洗ってね」と言い残して立ち上がる。 「食べたら早めに寝なさいよ」 「うん。……ありがとう」  母さんの姿を見送って、一人になったリビングを見渡す。壁にかかった時計は日付を越えてはいないにせよ、いつもならぼくも寝ている時間だった。  皿に残ったジャガイモをすくう手を止めてぼんやりしていると、調味料が入った棚にある、ひときわ背の低いビンに目がいった。中身はぼく用の錠剤だ。  メディカルボックスで作ったものと、医者からもらったものと。透明な袋に小分けにされたまま入っているそれは白とどぎついオレンジの二色があって、毎日飲んでいるのは効き目も副作用も弱い、白いほうだ。  最後のジャガイモを口にして食器を洗ってから、タバスコや塩をよけてそのビンを引き寄せた。照明を落としているから手元はぼんやりとしか見えない。  フタの留め具をぱきんと外して、今日の分の二粒を手のひらに出す。二つを合わせた大きさは、きみが本物だと思っていたレプリカくらいだ。  今回は見つけられなかったけど、本物を見たい。きみと一緒に。  ちゃちなレプリカじゃなくて、動物園に飼育されている生き物でもなくて、野生の動物や植物を。もっと暖かい地域に行けば見られるだろうか。外国かな。熱帯とか。どこかにちょっぴり残ってる亜熱帯とか? それとも、バイオディレクタの管理に関わる人になってしまおうか。そうすればもう一度本物の生き物を戻そうとみんなに呼びかけて、きみだけじゃない、世界中の人がレプリカ以外の、本物の生物を見られる世界にするのだって、できてしまうかもしれない。  ぼくたちは将来どんな仕事をして、どんなおとなになっているのだろうか。  そこに、きみはいるのだろうか。  きみは、翼を持っているだろうか。 「……、あれ」  体がかたむいた。とっさに椅子の背もたれをつかんで倒れないようにする。錠剤が手の平から滑り落ちて、どこかへ落っこちる。  視界がうすぼんやりとしてくる。浅くなっていく呼吸に気づいても直せなくて、片方の手を心臓のあたりに当てた。リズムを意識して、何とか呼吸は元通りになる。  それでも胃の底に残ったぐるぐるとした不快感が、足から力を抜いていく。その場にへたりこんで体を抱き込むみたいにうずくまった。  床がひんやりしている。  台所の小さなアナログ式時計の秒針がこつこつと進む。  そのままじっとしていると、階段を下りてくる音が聞こえた。母さんと父さん、どちらだろう。二人にはこんな状態、見せられない。もしも遊びに行ったせいだと思われたら。きみのせいと思われたら? 会うのは止めろと言われたら?  リビングの入口の死角になっている冷蔵庫の脇まで這っていって、念を入れて小さく縮こまった。  扉が開く音がして、入ってきたのは父さんだった。 「エギナル? ―や、寝たか」  すぐに電気が消されて真っ暗になった。脱衣所の電気が代わりについて、父さんが歯を磨いている音が聞こえてくる。それもしばらくしたら止んで、階段を上る音が徐々に小さくなっていった。  気づかれずに済んだけれど、相変わらず気持ち悪い。  何もかも、吐き出してしまいたい。  体にいらないものを溜めこんでいるから気持ちが悪いんだ。  よくない、体が空っぽじゃないのは良くないことだ。何にもないのが良い。  だって、軽くなれば飛べるかもしれないし。  出してしまおう。吐き出してしまおう。  冷蔵庫の隣のストッカーには、ビニール袋がキレイに畳んで入れてある。それを何枚か重ねて、さらにそのまた外側に、テーブルに置きっぱなしになっていた新聞や広告用紙を巻いて、ビニール袋の近くにストックされている紙袋に入れる。  一瞬、頭の隅が冷静になる。  こんなことをしても後々自分が苦しいだけだと、サイレンを鳴らす。  だけど音はすぐに消えていく。得体の知れない気持ち悪さを手放したくて、良くないものを取り払ってしまいたくて、ぼくはいつものように、口へ指を突っ込んだ。  気持ちよさも、解放感も、何もない。あるとすれば、むなしい安心だけだ。これでまだ生きられる、なんて思ってしまうような。 唾液と胃液まみれの親指で口のはじをぬぐって、袋へ適当になすりつけた。電気が消えているおかげで「それ」を直視しなくてすむ。 立ち上がり、紙袋の口を慎重に結ぶ。一回り大きい袋の中に他のゴミも混ぜ入れて、ゴミ箱の奥底に突っ込んだ。  吐き出すのを気持ちよいと思うのはきっと間違いだ。なのに同じことを繰り返してしまうからげんなりする。まったく学習能力がない。  冷水で手を洗って、ずるずると冷蔵庫の横に座り込む。何かを踏んづけたと思えばそれは、さっき落としてしまった錠剤だった。もう一個もどこかに転がっているのだろう。ほんの少しでも食べたあとでないと飲んではいけないと言われているので、この分はなかったことにするしかない。シンクの生ゴミ入れの中に放っておいた。  右手が熱い、と思って、窓からわずかに入りこんでくる月の光にすかしてみる。治りかけていたところを前歯か犬歯かに引っかけたのか、血が一滴たれていた。学校の鉄棒みたいな匂いのそれをそっと舐めてみる。ほんのりしょっぱい。  どんな食事よりも、自分の体は不味かった。
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